美幌海軍航空隊の歴史 History of the Bihoro Naval Air Corps

美幌海軍航空隊の歴史は、七〇一空となってからの時期を合わせ、昭和15年10月1日から昭和18年3月15日までの約2年半、正確には896日間のみです。この間、帝国海軍基地航空部隊の一部として、中国大陸、マレー、ソロモン諸島方面にて作戦に従事しました。
The history of the Bihoro Naval Air Corps, including the period after renaming to the 701st Air Corps, is only two and a half years, more accurately 895 days, from 1 October 1941 to 15 March 1943.  During the time, it was involved in several operations as a part of IJN land based air force in main land China, Malay and Salomon Islands.

九六式陸攻を擁して広範囲に活躍し、一度は地元である北海道・美幌町に凱旋した部隊でしたが、最終的には南太平洋のラバウルで消耗しほぼ全滅に近い形で解隊されたのでした。
Using Type 96 RIKKO's or code name 'Nell', it was successfully operating in wide area, and once made a triumphant return to the home town, Bihoro, Hokkaido.  However, it was heavily exhausted, almost anihilated and finally dissolved in Rabaul, Southern Pacific.

ここでは、その栄光と悲劇の歴史について、手元にある各種資料に基づいて少しずつではありますが記していきます。
Let me tell you about the history of honor and tragedy one by one, based on the materials available in my hand.

(last updated on 12/19/07).

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21 April 2012

昭和生まれの新兵 New comers born in SHOWA era

書棚にある、五編からなる海軍中攻空戦記中の第四編、近藤暢亨氏の「ソロモン空爆記ー青春を燃やしつくした血に染む制空権争奪の死闘」から、時期的におもしろいと思った部分を引用してみます。

昭和17年9月、カビエンに進出した鹿屋空・七五一空にあった著者が、鈴鹿で新規材を受領し、木更津基地を経由して昭和18年1月21日にカビエンに戻ったあたりのお話しです。(305・306頁)

「カビエン基地ではさっそく、内地から持ってきた新品飛行機で夜間離着陸、爆撃、雷撃と若い搭乗員の訓練を徹底的にやった。このころにはまた、内地から新しく補充された卒業したての搭乗員がやってきた。

 その中に昭和生まれの兵隊がいると聞いて、これはめずらしいと数人で見に行ったことがある。色の白い、子供子供した「坊や」といった感じの電信員だった。われわれの骨ばった真っ黒な顔をみてオドオドしている。

 私もこんな子供に戦争ができるだろうかと思ったが、彼らは戦況の推移と消耗の激しさから急遽養成され、卒業を繰り上げられて転勤してきたという。

 私の飛行機にも電信員として、そのうちの一名が配属された。なんだかかわいそうな気もしたが、あまやかしていては一人前の戦士になれないと思い、ドンドンきたえる。

 これらの紅顔の美少年たちも、やがて同じ運命の下に、南海に不帰の客となった者、運よく生きのびて優秀な戦士となった者、さまざまである。」

考えてみれば、昭和20年に終わった戦争の大部分は大正生まれの方々によって戦われたと言えます。元号が無い国の人には分からない、独特の感覚といえるでしょう。時代は変わって、職場にやってきた新人をみて平成生まれなんだ!と言って驚く昭和生まれの我々と、全く変わるところがありません。

(04/21/12; last updated 05/13/12)

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28 March 2012

昭和19年10月の美幌基地周辺 Bihoro Air Base Area in October 1944

書棚にある世古氏の著書によれば、五五三空の攻撃ニ五ニ飛行隊は、昭和19年4月から7月まで天山艦攻を擁して美幌基地にありました。その後、一時哨戒配備で占守島へ進出しましたが、昭和19年10月の台湾沖航空戦の直前に鹿児島・鹿屋基地へ移動したとのことです。

眼下の景色が目に浮かぶような、昭和19年10月当時の美幌基地周辺の様子を、世古氏の表現を引用させていただきます(32~33頁)。

「・・・行く先は九州の鹿屋と聞いていたが、この飛行機の足では北千島の占守島から、一気にそこまで飛ぶことはむずかしいので、途中のどこかに着陸しなければならない。どこに着陸するかが楽しみである。

・・・一番機が飛んだ航跡を航空図の上に記入してゆく後続機航法をしていると、千島列島の四分の三を飛び終わって、択捉海峡をすぎたあたりで、前方に弓状に長く走る網走の海岸線が見えてきた。

 編隊は知床岬の尖端をひっかけて、網走まで直進し、そこで左に変針をして、私たちの隊が昔いたことのある美幌航空隊のある美幌の町の上空を飛ぶ気でいるらしい。

 この町の上空を通り、雌阿寒岳、雄阿寒岳の間を飛んで、襟裳岬を下に見て、そこでいったん海に出、奥羽地方の東側を縦走して目的地へ向かうようだ。このコースは、明らかに、この世の見おさめを意識したものである。・・・」

この飛行では降りることはありませんでしたが、美幌基地は、この時点では千島に展開する海軍航空部隊の後方基地として機能していたようです。

(last updated on 01/28/12)

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17 March 2012

昭和19年4月の美幌基地 Bihoro Air Base in April 1944

書棚にある美幌叢書「史話・美幌海軍航空隊」によれば、昭和19年4月の、美幌基地にその一部が配備されていた第五十一航空戦隊を含む配備状況は次のとおりとなっています。

北東方面艦隊
  第五艦隊

  第十二航空艦隊
     第二十七航空戦隊
      第五十一航空戦隊
      二〇三空(旧厚木空) 艦戦/千歳、占守島、美幌
      五〇二空(「松」;旧佐伯空) 艦爆/千歳、松輪島、美幌
      五五三空(「梅」;旧築城空) 艦爆/幌莚島、美幌
      七〇一空(「橘」;旧豊橋空) 陸攻/千歳 

陸上自衛隊美幌駐屯地・北辰館前にある「沿革」によれば、昭和19年4月には第五十一航空艦隊司令部が置かれたとのことです。また、同年7月には第三十六魚雷調整班が移駐しました。

ただ、北方警備や練成目的で各部隊とも配備されてはきたものの、昭和19年10月以降、戦況の悪化しつつあった南方方面へ抽出される部隊が相次いだため、基地航空部隊として美幌基地に長く留まった部隊はありません。

五〇二空は、彗星艦爆隊であったが機材を九九艦爆に替えて千歳・美幌に昭和19年4月頃に進出、7月に正式に第五十一航空戦隊、その後10月に七〇一空に併合。五五三空についても、少なくとも攻撃二五二は同じく昭和19年10月に七〇一空に併合されているようです。ここでの七〇一空は、元美幌空の七〇一空と区別して「二代目七〇一空」と呼ばれることもあります。

ちなみに、第五艦隊は、南方の情勢悪化に伴い昭和19年10月にはレイテ島沖海戦に参加、その後12月には南西方面艦隊に異動。水上艦隊を欠く形となり北東方面艦隊は解隊、第十二航空艦隊は終戦まで連合艦隊に所属することになります。

なお、第二十七航空戦隊の、昭和19年4月当時の状況については、まだ調査中です(既に実態がなかったかもしれません)。

(09/27/08; last updated on 03/17/12)

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15 January 2012

昭和19年夏の美幌基地における攻撃二五二

攻撃二五二は、中攻ではなく艦攻の部隊です。

書棚にある世古氏の著書によれば(91頁)、美幌基地に至る隊の変遷は、「鹿屋航空隊から九州の築城航空隊に移動し、それまでは第五五三航空隊・梅部隊という女性的な名前で呼ばれていたものが、昭和十九年二月に、七〇一航空隊・攻撃二五二飛行隊に編成替えになった。」ということです。

美幌基地では、厳しい訓練が続けられていました。天山艦上攻撃機による、昭和十九年春から夏にかけての訓練の様子が詳しく記されています。

1 定着訓練(41頁)
空母甲板に見立てた位置に、着艦の要領で接地します。第四旋回から赤灯・青灯を見ながら降下し三点着陸を目指します。

2 洋上航法訓練(47頁)
ボイコー照準器で、洋上の白く砕ける波頭を測って偏流を知り、計算機と図板を使って作図のみで洋上2千キロを飛行します。

3 計器飛行訓練(50頁)
操縦席の上に天蓋をかけて外を見えなくして、計器だけで飛行します。霧、雪、荒天時に備えるものです。

4 夜間飛行訓練(51頁)
定着訓練と同じ要領で、カンテラを二・三十メートル間隔で置き、艦首灯・艦尾灯を配置した中に着陸します。

5 夜間雷撃訓練(92頁)
標的艦「摂津」をオホーツク海に呼び、美幌基地からの索敵機6機に続き、偵察機3機、攻撃機34機が襲撃する、というものでした。

美幌の街には、エンジン音が絶えず響き渡っていたことでしょう。

(original 01/07/12; last updated on 01/15/12)

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14 January 2012

第五十一航空戦隊設置の経緯

書棚にある「証言録-海軍反省会」の77ページに、海軍の人事行政・教育問題を論じる中で、第三艦隊参謀であった末国正雄氏の証言として、第五十一航空戦隊設置の経緯が触れられています。

- 第三艦隊の航空母艦への搭乗員の補充のため、昭和18年2月より、第三艦隊付属で五〇航戦を編成。五〇航戦は、空母・鳳翔、富高空、鹿屋空からなり、第三艦隊の戦策にのっとった教育を行って、航空母艦の搭乗員が不足すると飛行機もろとも組で異動させる。

- 中攻隊についても同様の措置として、昭和18年の暮れから19年の初めにかけ、五一航戦が編成された。本来ならば一一航艦に付属させるべきところ、一一航艦がラバウルで作戦中であったためかなわず、やむなく作戦中でない一二航艦に付属させた。これにより中攻一機とその組を異動させることのできる体制となった。

なんとか実戦に即した体制を目指していたようですが、搭乗員の養成は常に後手に回っており、航空隊単位での編成・前線進出という形には最早こだわらない形となっていったようです。

後方・美幌基地において、中攻搭乗員を一組ずつ養成するための訓練が続いていたことになります。

(original 01/05/10;last updated on 01/18/12)

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05 January 2012

地下秘密基地の零戦 Zero Fighters in Secret Underground Base?

「終戦間際に秘密の地下基地があった」との噂について、陸上自衛隊・美幌駐屯地・広報担当の方に2004年にうかがったところによれば、

- そのようなものはあるはずがない
- 自分の父親が当時周辺に住んでいて基地の人と行き来があったが、そのような話があれば絶対に何か聞いているはず、従ってありえない話
- 終戦間際にも零戦はあったかもしれないが、修理を要するもの等で実戦に使えるものはなかったのではないか
- 崖からカタパルト発進する、などというようなことを言っている人もいるようだが、それは考えるまでもなく無理

というお話でした。

「地下基地」とは、どんなイメージのものでしょうか。格納庫が地下にある、ということでしょうか。その場合は、空母の格納甲板のような構造が地下にあって、エレベータで上げ下げすのでしょうか。ディズニーランドのスターツアーズや、サンダーバード2号の地下格納庫のようなものを想像するなら、それはちょっとやりすぎというものです。

飛行隊の運用を少しでも考えてみれば、つまり、整備した機体を使って、必要な時に飛び立って作戦行動し、着陸し、そして格納してまた整備する、その時間的・空間的な広がりを考えれば、掩体壕以上のものをつくって何機もの機体を上空からだけでなく地上の敵からも隠すというような物語的な発想は出てこないものと思います。連合軍の本土上陸作戦への対策として一回限りの特攻を考えるとしても、空襲を避け出撃可能なようにすれば十分だからです。

さらに、爆弾は危険物として弾薬庫に厳重に保管され離陸前に初めて装着するものです。敵の上陸作戦を食い止めるための対艦・対地攻撃を想定し、事前に取り付けておくという発想かもしれませんが、それでも爆装してわざわざ地下にしまっておく意味はありません。

ただ、第41航空廠美幌分工場の一部若しくはかなりの部分が、空襲に備えて地下に移されていたのは確かなようです。実際、占領軍へ提出された目録の上では、工作機械や予備の発動機を中心に多くが「地下工場」にあるものとして表示されています。

なお、本部庁舎の建物の形状が、普通なら玄関は「辺」の位置にあるところ「角」のところにある特徴的なもので、これは軍艦の舳先を模した海軍独特のもの、とのお話を同じく駐屯地広報の方から伺いました。このあたりが、「航空母艦のような建物に地下基地の機能がある」といった空想を呼ぶのかもしれません。また、美幌基地は隊内の建物の冬季の移動を容易にするための「雪中廊下」が有名ですが、これも飛行機の運用とは関係がなさそうです。

ちなみに、網走刑務所他の受刑者が基地建設に動員されたというのは、軍関係施設を含め大規模な工事であれば当時としては珍しいことではなかったようで、受刑者がいたことでそれが何か秘密の設備を造るためであった、ということにはなりません。美幌基地の建設についてもそうであったことは、前述したとおりです。

(original 05/05/09; last updated on 05/16/12)

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17 December 2011

平成23年慰霊祭・懇親会 2011 Memorial Service & Party

例年どおり、原宿の東郷神社・海の宮にて慰霊祭が行われ、その後、神社に隣接する東郷会館と同じ建物内にあるクラブ水交で懇親会が行われました。「中攻会」は既に解散し、その後「中攻の会」として緩やかな形で存続しておりますが、長年会長であられた壱岐春記氏が本年10月8日に亡くなられて初めての会となりました。
As usual, the memorial service was held at the UMINO-MIYA small shrine in the Togo Shrine, Harajuku, Tokyo, followed by a party in the Club SUIKO, in the same building of the TOGO KAIKAN.  CHUKO-KAI has already been resolved, and CHUKO-NO-KAI keeps its activities in more informal manner.  This is for the first time meeting after Mr. Haruki Iki, who had been the chairman for years, has passed away on 8 October 2011.

奥様は、本年5月の誕生日に、車椅子でお元気そうな様子の壱岐さんのお写真をお持ちになり、最期の様子をお話しになりました。また、額に入った今上陛下からの木杯授与の証、内閣からの贈正五位を証する位記を、とても重かったのにわざわざお持ちになってご披露いただきました。
His wife told about his last days, with his picture took on his birthday in May this year, who looks well on a wheelchair.  She also brought two framed certificates, even though they are quite heavy.  One is from the Emperor, to give him a set of wooden cups, and the other is from the Cabinet, to award the posthumous honors to the upper fifth grade.

その他、順に短いスピーチの交換となりました。
After that, several speeches were made as below.

1) 河口湖自動車博物館飛行館で復元されている一式陸攻のお話しを、夏に訪問された方から。
About a G4MI under respore at Kawaguchi-ko Auto Muzeum, Zero Fighters Museum, by whom visited the site this summer.
http://www.car-airmuseum.com/ZeroFighterMuseum.html

2) NHKの「おじいちゃんと鉄砲玉と私」という番組について、プロデューサーであるお孫さんでから。
About the TV program, 'My grandfather, a bullet and me', by his grandchild, who is the NHK producer.
http://www.nhk.or.jp/20min-blog/80275.html#comment

3) 磐田市で、降伏軍使を乗せたまま海岸に不時着した緑十字機の、以前見つかったものに続いて最近底引き網にかかって見つかった部品について。
About a Green Cross marked G4M1, which made an emergency landing on shore, with military surrender envoy on board.  A body part was found once again in a trawlne, recently.
http://www.city.iwata.shizuoka.jp/news/2011/12/post-225.php

その後、出席者全員が一言ずつ挨拶される中で、私からは、数時間後にスタフォードシャーにある英国国立植物園で行われる戦艦レパルス・戦艦プリンス・オブ・ウェールズの沈没70周年を追悼する式典についてご紹介しました。
Every attendee made some comments; I have informed them that, within several hours from now, HMS Repulse & HMS Prince of Wales Memorial Service for the 70th Anniversary will be held in the National Arboritum in Staffordshire.
http://www.tpsphoto.co.uk/?Action=_VC&id=92166602&ppp=0&ppwd=nc3835pr

(original 12/17/11; last updated 01/20/12)

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17 November 2011

撃墜王・西沢、岩本飛曹長

書棚にある角田和男氏の著書によれば(306頁)、昭和19年9月末ころ、硫黄島から戻って千葉県茂原基地にあった二五二空の著者のところに、夕方北海道・美幌基地から飛んできた二〇三空の西沢広義飛曹長の訪問を受けた、とあります。

あの零戦のエース・パイロットが美幌にも来ていたのか、と初めて知ることになりました。美幌空は開隊当時には、第4分隊として戦闘機隊も持っていたこともあり、また美幌基地をめぐる戦闘機隊の動きについても調べてみたいと思います。

ちなみに、訳あって謹慎中であった著者が宴会への誘いを断ったところ、翌日になって部屋に訪ねてきた特准仲間とラバウルでの空戦の話題で大いに盛り上がった、そのメンバーがまたすごいと思いました。

角田和男少尉

西沢広義飛曹長 二〇三空
長田延義飛曹長
尾関行治飛曹長
岩本徹三飛曹長 二五二空 戦闘三一六飛行隊
斎藤三郎飛曹長

話題の詳細は別途。

(11/17/11; last updated on 11/19/11)

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28 June 2011

昭和20年7月北海道空襲 Hokkaido Air Raid in July 1945 4/4

続きです。

Db_0429_031書棚にある「網走空襲の記録」中の松本尚志氏の調査によれば、10機のF4U-4コルセア艦上攻撃機からなるD攻撃隊は、昭和20年7月15日午前9時過ぎ、厚岸から計根別を過ぎて北に向かっていたが、目標としていた美幌方面の進行方向、北から北西にかけて雲が厚かったため、標津から羅臼にかけて沿岸を飛行し、その後知床半島を越えて二隊に分離しました。

4機は網走方面へ向かい、一旦サロマ湖までの沿岸を偵察しながら水上機基地の発見に努めたが果たせず、網走に引き返して市街の地上施設と海上の小型船舶に攻撃を加えました。一方、残り6機は網走・濤沸間で飛行場の偵察を行い、美幌第三基地として整備中であった小清水付近の、列車、鉄橋、工場に機銃・ロケット弾による攻撃を加えました。

Db_1109_04書棚にある「網走空襲の記録」にある菊地慶一氏の長年にわたる調査によれば、昭和20年7月15日、午前10時20分頃に網走市内上空に進入した米軍機により、防空監視哨(見張り台であり対空砲火は無かった模様)で機銃により1名、学校を狙ったロケット弾がそれて本来陸上戦闘用の「たこつぼ」(防空壕では無い)に落ち、そこに逃げ込んでいた防衛隊員6名が犠牲となったほか、食料増産を期して出漁していた漁船上で5名、原生花園沿いの線路上・列車内で2歳に満たない幼女1名、浜小清水の駅員1名の計14名が命を落としました。

この他、常呂沖の漁船上で1名、北見機関区の鉄道員3名が列車の運行先で犠牲となり、この方々を合わせ計18名の慰霊碑が建立されています。

(last updated on 08/01/09; original on 11/04/08)

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昭和20年7月北海道空襲 Hokkaido Air Raid in July 1945 3/4

つづきです。

Lex430511書棚にある「網走空襲の記録」にある松本尚志氏の調査によれば、道東・道北への攻撃は、3隻の正式空母・2隻の軽空母からなるスプラーグ少将Rear Adm. T. L. Sprague 指揮の第38.1任務群TF38.1が担当しました。このうち、釧路・根室・帯広・美幌・本別を目標としたのはエセックス級空母レキシントンUSS Lexington CV-16の艦載機でした。

昭和20年7月14日は、悪天候・視界不良のため、攻撃隊は目標を変更して釧路付近で主に船舶・機関車・地上施設を攻撃して帰投。翌15日の再攻撃も上空を遮る雲のため、A攻撃隊:美幌→標茶、B攻撃隊:美幌・女満別・能取湖・湧別→標津、C攻撃隊:帯広→本別、D攻撃隊:美幌→網走・斜里・別海・標津と、上空にて指揮官の判断により目標が変更された模様です。

従って、各攻撃隊が10~15機からなっていたことからすると、美幌上空に実際に至ったのは最大30~40機に及ぶのかもしれません。美幌が空襲に合わなかったのは全くの偶然であり、その分周辺地域への損害が拡大した、ということもできるのです。

(つづく)

(last updated on 07/07/09; original on 11/03/08)

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