昭和20年北海道空襲関係です。美幌が「M地」と呼ばれたように、「NE地」と呼ばれて整備された、根室にある牧之内飛行場の話です。下記より一部引用させていただき、もう少し調べることができればと思います。
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「なぜ,ここに滑走路が」
フロッタージュ・コラボレーション・プロジェクト
文化庁平成15年度学校への芸術家派遣事業・根室市立歯舞中学校生徒135人との共同制作・岡部昌生
http://lib.sapporo-otani.ac.jp/kiyou/no35/ronbun-okabe.pdf
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北海道・樺太・千島には1932(昭和7)年から1945(昭和20)年の間に,既設14ヵ所,新設49ヵ所,計63ヵ所の飛行場が建設された。根室支庁管内だけでも,中標津・川北・計根別(1~5)・花咲・牧之内の9ヵ所の飛行場があり,千島にも21ヵ所ほどの飛行場が造られたという(鈴木徹『北海道の旧飛行場』私家版,以下本書による)。根室支庁管内の9ヵ所の内,最も早く造られたのは花咲不時着場で1932(昭和7)年に着工した。その他の8ヵ所は1942(昭和17)年から1944(昭和19)年に着工された。もっとも花咲不時着場も1941(昭和16)年から拡張工事を開始している。こうして着工時期を見るとほとんどが第二次世界大戦中に造られたことが分かる。しかし,戦争終結時には完成していなかった飛行場も多い。一方,千島では約20ヵ所の飛行場が,択捉島から最北西の占守島の島々に建設された。その建設時期も根室支庁管内とほぼ同時期であった。
当時の戦況を見ると,日本軍は1943(昭和18)年にはアリューシャン列島のアッツ島での米軍との戦いで2千数百人が玉砕し,キスカ島から軍隊撤収というように,アメリカ軍が優勢となり,北からのアメリカ軍の侵攻を止めることが急務となった。このような時にそれまであった飛行場は再整備され,新たに千島列島や北海道各地に飛行場が建設されたのである。
牧之内飛行場の建設についての詳細は不明であるが,先に引用した鈴木徹氏の調査や,根室空襲研究会の『根室空襲』,あるいは,1973(昭和48)6月に6回にわたって『北海道新聞』根室版に掲載された「牧之内哀歌飛行場の朝鮮人受難」などをもとに,以下わかるところを述べる。
牧之内飛行場が建設されることになった直接の要因は,アッツ島玉砕とキスカ島撤兵直後の1943(昭和18)年8月23日に,札幌で北方軍と北東方面艦隊との間で「北太平洋方面陸軍指揮官の協定」がなされ,陸軍と海軍の分担が決まり作戦準備が始まった。その中で作戦目的は,来攻する敵を撃破して千島・北海道等の防衛とアリューシャン方面の敵兵力を減殺することであった。作戦方針は千島列島の防備を速やかに強化し,敵を発見することを厳しくし敵来攻の時は極力洋上で撃滅すること。作戦要領として,千島列島では陸海軍は各航空基地の配備等を強化すること,とした。この年根室には第32警備司令部や陸軍病院が置かれ,千島には第三守備隊が配置された。これにより,北海道・樺太・千島に航空基地を,既設14ヵ所,建設中をふくめ新設49ヵ所を整備建設することになった。計63ヵ所のうち陸軍は43ヵ所,海軍は20ヵ所を担当した。
牧之内飛行場建設は,以上の計画により実施されたと思われるが,これより前の1941(昭和16)年9月に,牧之内飛行場建設のため,209部隊NE地施設工事準備室が根室町公会堂中2階に開設された。同年12月には工事を請け負った地崎・菅原・佐々木・丹野組が直属の一般労務者のほか,タコ(飯場に監視付で収容され,重労働を強制された労務者)を連れてきた。1942(昭和17)年春には,連れてこられた朝鮮人労働者は2千人に達したという。日本人労務者も徴用,直属合わせて多い時で1千人にも及んだ。タコ部屋と呼ばれる鉄格子付三角兵舎や通信所,司令部,日輪兵舎などの関連施設が,滑走路工事前に造られたようである。
飛行場建設工事は1943(昭和18)年9月1日に着工し,全体が990ha程の面積に滑走路が2本造られることになった。1本は1000m×60m(1200m×80m とする記述もある),もう1本も同じ長さで建設中であったが560m×60m で未完成。他に格納庫6棟,無蓋掩体(大)が18個(現存12個),無蓋掩体(小)が6個(現存2個),有蓋掩体(小)が12個(現存7個)が建設された。1944(昭和19)年秋には,根室南西部の落石から原木を,厚岸の門静から石材を運ぶ軍用列車を走らせるため,根室駅の引き込み線を牧之内まで延長させた。
タコと呼ばれた朝鮮人労働者たちの主な仕事は滑走路の建設であり,トラックや貨車で運ばれてきた採石をモッコで運んで基礎を造ることであった。彼らの服装は真冬でも薄い麻の上っ張り一枚で,ワラで編んだ手袋や靴をはいている状態であった。食事も満足に与えられず栄養失調になる者も多く,棒頭と呼ばれる者が木刀で彼らを殴りながら強制的に働かせた。気絶すると水をかけ,動けなくなったものは採石と一緒に埋められたと伝えられている。1943(昭和18)年夏には,筵にぼろ毛布という不潔なタコ部屋から発疹チフスが大発生し,栄養失調や脚気などの病気,怪我などの死亡者と合わせて200人以上の朝鮮人労働者が死亡したと推定されている。こうした朝鮮人労働者は牧之内飛行場だけでなく,終戦時には北海道内に約20万人もいたとされ,日本の戦争施設の工事に強制的に働かされていた。ここに戦場だけではない犠牲者の姿がある。
1944(昭和19)年末ころから,日本全土が米軍の空襲を受けるようになり,1945(昭和20)年3月には東京空襲,4月に沖縄が占領され,同7月14・15日には根室や北海道・東北の各都市が空襲を受けた。根室の市街地は爆弾などにより8割が焼失し,200人以上の人が死亡した。さらに,長崎・広島に原爆が落とされ,8月15日日本は降伏し戦争が終わった。北海道各地に造られた飛行場やトーチカなどの軍事施設は,急造のものが大部分で未完成の施設も多かった。さらに飛行場はできたが飛行機が無いという状態であった。