美幌海軍航空隊の歴史 History of the Bihoro Naval Air Corps

美幌海軍航空隊の歴史は、七〇一空となってからの時期を合わせ、昭和15年10月1日から昭和18年3月15日までの約2年半、正確には896日間のみです。この間、帝国海軍基地航空部隊の一部として、中国大陸、マレー、ソロモン諸島方面にて作戦に従事しました。
The history of the Bihoro Naval Air Corps, including the period after renaming to the 701st Air Corps, is only two and a half years, more accurately 895 days, from 1 October 1941 to 15 March 1943.  During the time, it was involved in several operations as a part of IJN land based air force in main land China, Malay and Salomon Islands.

九六式陸攻を擁して広範囲に活躍し、一度は地元である北海道・美幌町に凱旋した部隊でしたが、最終的には南太平洋のラバウルで消耗しほぼ全滅に近い形で解隊されたのでした。
Using Type 96 RIKKO's or code name 'Nell', it was successfully operating in wide area, and once made a triumphant return to the home town, Bihoro, Hokkaido.  However, it was heavily exhausted, almost anihilated and finally dissolved in Rabaul, Southern Pacific.

ここでは、その栄光と悲劇の歴史について、手元にある各種資料に基づいて少しずつではありますが記していきます。
Let me tell you about the history of honor and tragedy one by one, based on the materials available in my hand.

(last updated on 12/19/07).

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07 July 2009

昭和20年7月北海道空襲 Hokkaido Air Raid in July 1945 4/4

続きです。

Db_0429_031書棚にある「網走空襲の記録」中の松本尚志氏の調査によれば、10機のF4U-4コルセア艦上攻撃機からなるD攻撃隊は、昭和20年7月15日午前9時過ぎ、厚岸から計根別を過ぎて北に向かっていたが、目標としていた美幌方面の進行方向、北から北西にかけて雲が厚かったため、標津から羅臼にかけて沿岸を飛行し、その後知床半島を越えて二隊に分離しました。

4機は網走方面へ向かい、一旦サロマ湖までの沿岸を偵察しながら水上機基地の発見に努めたが果たせず、網走に引き返して市街の地上施設と海上の小型船舶に攻撃を加えました。一方、残り6機は網走・濤沸間で飛行場の偵察を行い、美幌第三基地として整備中であった小清水付近の、列車、鉄橋、工場に機銃・ロケット弾による攻撃を加えました。

Db_1109_04書棚にある「網走空襲の記録」にある菊地慶一氏の長年にわたる調査によれば、昭和20年7月15日、午前10時20分頃に網走市内上空に進入した米軍機により、防空監視哨(見張り台であり対空砲火は無かった模様)で機銃により1名、学校を狙ったロケット弾がそれて本来陸上戦闘用の「たこつぼ」(防空壕では無い)に落ち、そこに逃げ込んでいた防衛隊員6名が犠牲となったほか、食料増産を期して出漁していた漁船上で5名、原生花園沿いの線路上・列車内で2歳に満たない幼女1名、浜小清水の駅員1名の計14名が命を落としました。

この他、常呂沖の漁船上で1名、北見機関区の鉄道員3名が列車の運行先で犠牲となり、この方々を合わせ計18名の慰霊碑が建立されています。

(last updated on 07/07/09; original on 11/04/08)

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昭和20年7月北海道空襲 Hokkaido Air Raid in July 1945 3/4

つづきです。

Lex430511書棚にある「網走空襲の記録」にある松本尚志氏の調査によれば、道東・道北への攻撃は、3隻の正式空母・2隻の軽空母からなるスプラーグ少将Rear Adm. T. L. Sprague 指揮の第38.1任務群TF38.1が担当しました。このうち、釧路・根室・帯広・美幌・本別を目標としたのはエセックス級空母レキシントンUSS Lexington CV-16の艦載機でした。

昭和20年7月14日は、悪天候・視界不良のため、攻撃隊は目標を変更して釧路付近で主に船舶・機関車・地上施設を攻撃して帰投。翌15日の再攻撃も上空を遮る雲のため、A攻撃隊:美幌→標茶、B攻撃隊:美幌・女満別・能取湖・湧別→標津、C攻撃隊:帯広→本別、D攻撃隊:美幌→網走・斜里・別海・標津と、上空にて指揮官の判断により目標が変更された模様です。

従って、各攻撃隊が10~15機からなっていたことからすると、美幌上空に実際に至ったのは最大30~40機に及ぶのかもしれません。美幌が空襲に合わなかったのは全くの偶然であり、その分周辺地域への損害が拡大した、ということもできるのです。

(つづく)

(last updated on 07/07/09; original on 11/03/08)

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昭和20年7月北海道空襲 Hokkaido Air Raid in July 1945 2/4

つづきです。

第38機動部隊は、7月10日には東京近郊の航空基地を攻撃し、北方に向かって14日・15日には本州北部・北海道、17日には東京、18日は横須賀の海軍施設、24日は瀬戸内海から呉の海軍施設及び九州、25日には大阪・名古屋、この後月末までこれらの地域への攻撃を繰り返しました。

8月1日に台風を避けて一旦南下した後、広島の原爆投下に備えて同空域を制圧。さらに9日・10日には再度本州北部・北海道、13日にはまた東京沖に戻って終戦を迎えました。 給油のため何度か陸地を離れたりしますが、日本近海に留まって、地上施設・船舶攻撃の手を緩めることはありませんでした。

幻の本土上陸「オリンピック作戦」の前哨戦と位置づけられていたこの一連の攻撃には、英国・英連邦諸国海軍の空母・戦艦・駆逐艦からなる第37機動部隊も参加しており、その旗艦は戦艦キングジョージ5世でした。開戦直後、美幌空が参加したマレー沖海戦において、航空機による攻撃のみよって初めて撃沈された戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズと同型艦の3艦のうちの一つです。但し、マヌス島を昭和20年7月6日に出発して関東沖で米国艦隊と合同したのは16日とみられ、7月中の北海道への攻撃には参加していないようです。

(last updated on 07/07/09, original on 11/02/08)

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昭和20年7月北海道空襲 Hokkaido Air Raid in July 1945 1/4

昭和20年7月14日・15日には、北海道全域に対して米機動部隊の戦艦による艦砲射撃、艦載機による空襲がありました。14日に函館・室蘭・帯広・釧路・根室、続いて15日には再び函館・小樽・室蘭・釧路・旭川・帯広・網走が空襲を受けました。本土上空の制空権・太平洋側近海の制海権の下、14隻もの空母を擁する第38機動部隊が、陸上の軍事・軍需施設及び沿岸の艦船をくまなく攻撃して回る8月の終戦までの約1ヶ月の間の作戦の一環でした。
On 14 adn 15 July 1945, there were bombardments by warships and air raids by carrier-based airplanes against all over the Hokkaido Island, by US Navy Task Forces.  On 14th, cities of Hakodate, Muroran, Obihiro, Kushiro and Nemuro were attacked, followed by Hakodate, Otaru, Muroran, Kushiro, Asahikawa, Obihiro and Abashiri on 15th.  Under the mastery of the air over four Japanese main islands and thier neibouring waters, Task Force 38 with 14 Air Carriers were striking military and industrial facilities and ships for a month or so until the end of the war in August 1945.

美幌基地も当初より本州北部・北海道における攻撃目標に入っていたようですが、実際の被害は免れました。書棚にある「史話 海軍美幌航空隊」の中の、美幌基地で九〇三空美幌派遣隊員として整備を担当していた鈴木賢之助氏の談によれば(65頁)、網走への空襲は7月15日で、たまたま当日は美幌上空は厚い雲があり、網走方面に雲の切れ間があったため美幌からも敵機の急降下爆撃の様子が見えた、とのことです。また、中矢元近氏によれば(100頁)、網走にグラマンが爆弾を落としたが美幌上空は曇天で音だけ聞こえていた、とのことです。

(last updated on 07/07/09, original on 11/01/08)

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27 June 2009

根室・牧之内海軍飛行場

昭和20年北海道空襲関係です。美幌が「M地」と呼ばれたように、「NE地」と呼ばれて整備された、根室にある牧之内飛行場の話です。下記より一部引用させていただき、もう少し調べることができればと思います。

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「なぜ,ここに滑走路が」
フロッタージュ・コラボレーション・プロジェクト
文化庁平成15年度学校への芸術家派遣事業・根室市立歯舞中学校生徒135人との共同制作・岡部昌生
http://lib.sapporo-otani.ac.jp/kiyou/no35/ronbun-okabe.pdf

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北海道・樺太・千島には1932(昭和7)年から1945(昭和20)年の間に,既設14ヵ所,新設49ヵ所,計63ヵ所の飛行場が建設された。根室支庁管内だけでも,中標津・川北・計根別(1~5)・花咲・牧之内の9ヵ所の飛行場があり,千島にも21ヵ所ほどの飛行場が造られたという(鈴木徹『北海道の旧飛行場』私家版,以下本書による)。根室支庁管内の9ヵ所の内,最も早く造られたのは花咲不時着場で1932(昭和7)年に着工した。その他の8ヵ所は1942(昭和17)年から1944(昭和19)年に着工された。もっとも花咲不時着場も1941(昭和16)年から拡張工事を開始している。こうして着工時期を見るとほとんどが第二次世界大戦中に造られたことが分かる。しかし,戦争終結時には完成していなかった飛行場も多い。一方,千島では約20ヵ所の飛行場が,択捉島から最北西の占守島の島々に建設された。その建設時期も根室支庁管内とほぼ同時期であった。

当時の戦況を見ると,日本軍は1943(昭和18)年にはアリューシャン列島のアッツ島での米軍との戦いで2千数百人が玉砕し,キスカ島から軍隊撤収というように,アメリカ軍が優勢となり,北からのアメリカ軍の侵攻を止めることが急務となった。このような時にそれまであった飛行場は再整備され,新たに千島列島や北海道各地に飛行場が建設されたのである。

牧之内飛行場の建設についての詳細は不明であるが,先に引用した鈴木徹氏の調査や,根室空襲研究会の『根室空襲』,あるいは,1973(昭和48)6月に6回にわたって『北海道新聞』根室版に掲載された「牧之内哀歌飛行場の朝鮮人受難」などをもとに,以下わかるところを述べる。

牧之内飛行場が建設されることになった直接の要因は,アッツ島玉砕とキスカ島撤兵直後の1943(昭和18)年8月23日に,札幌で北方軍と北東方面艦隊との間で「北太平洋方面陸軍指揮官の協定」がなされ,陸軍と海軍の分担が決まり作戦準備が始まった。その中で作戦目的は,来攻する敵を撃破して千島・北海道等の防衛とアリューシャン方面の敵兵力を減殺することであった。作戦方針は千島列島の防備を速やかに強化し,敵を発見することを厳しくし敵来攻の時は極力洋上で撃滅すること。作戦要領として,千島列島では陸海軍は各航空基地の配備等を強化すること,とした。この年根室には第32警備司令部や陸軍病院が置かれ,千島には第三守備隊が配置された。これにより,北海道・樺太・千島に航空基地を,既設14ヵ所,建設中をふくめ新設49ヵ所を整備建設することになった。計63ヵ所のうち陸軍は43ヵ所,海軍は20ヵ所を担当した。

牧之内飛行場建設は,以上の計画により実施されたと思われるが,これより前の1941(昭和16)年9月に,牧之内飛行場建設のため,209部隊NE地施設工事準備室が根室町公会堂中2階に開設された。同年12月には工事を請け負った地崎・菅原・佐々木・丹野組が直属の一般労務者のほか,タコ(飯場に監視付で収容され,重労働を強制された労務者)を連れてきた。1942(昭和17)年春には,連れてこられた朝鮮人労働者は2千人に達したという。日本人労務者も徴用,直属合わせて多い時で1千人にも及んだ。タコ部屋と呼ばれる鉄格子付三角兵舎や通信所,司令部,日輪兵舎などの関連施設が,滑走路工事前に造られたようである。

飛行場建設工事は1943(昭和18)年9月1日に着工し,全体が990ha程の面積に滑走路が2本造られることになった。1本は1000m×60m(1200m×80m とする記述もある),もう1本も同じ長さで建設中であったが560m×60m で未完成。他に格納庫6棟,無蓋掩体(大)が18個(現存12個),無蓋掩体(小)が6個(現存2個),有蓋掩体(小)が12個(現存7個)が建設された。1944(昭和19)年秋には,根室南西部の落石から原木を,厚岸の門静から石材を運ぶ軍用列車を走らせるため,根室駅の引き込み線を牧之内まで延長させた。

タコと呼ばれた朝鮮人労働者たちの主な仕事は滑走路の建設であり,トラックや貨車で運ばれてきた採石をモッコで運んで基礎を造ることであった。彼らの服装は真冬でも薄い麻の上っ張り一枚で,ワラで編んだ手袋や靴をはいている状態であった。食事も満足に与えられず栄養失調になる者も多く,棒頭と呼ばれる者が木刀で彼らを殴りながら強制的に働かせた。気絶すると水をかけ,動けなくなったものは採石と一緒に埋められたと伝えられている。1943(昭和18)年夏には,筵にぼろ毛布という不潔なタコ部屋から発疹チフスが大発生し,栄養失調や脚気などの病気,怪我などの死亡者と合わせて200人以上の朝鮮人労働者が死亡したと推定されている。こうした朝鮮人労働者は牧之内飛行場だけでなく,終戦時には北海道内に約20万人もいたとされ,日本の戦争施設の工事に強制的に働かされていた。ここに戦場だけではない犠牲者の姿がある。

1944(昭和19)年末ころから,日本全土が米軍の空襲を受けるようになり,1945(昭和20)年3月には東京空襲,4月に沖縄が占領され,同7月14・15日には根室や北海道・東北の各都市が空襲を受けた。根室の市街地は爆弾などにより8割が焼失し,200人以上の人が死亡した。さらに,長崎・広島に原爆が落とされ,8月15日日本は降伏し戦争が終わった。北海道各地に造られた飛行場やトーチカなどの軍事施設は,急造のものが大部分で未完成の施設も多かった。さらに飛行場はできたが飛行機が無いという状態であった。

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19 June 2009

びほろ/みほろ Bihoro/Mihoro

実は、いくつかの文献、特に英文のものが美幌航空隊のことを「みほろ」と表示していたのが気になって、調べ始めた経緯にあります。町の名前としては、「びほろ」以外にはありえません。戦後、基地を検査した連合軍も「びほろ」と記録しています。米国公文書館のHP http://arcweb.archives.gov/arc/basic_search.jsp での検索は、Bihoroでのみヒットします。しかし、どうも海軍内では「みほろ」と呼ばれていたようなのです。なぜなのか。
Actually, I started researching on this subject, when I found several materials, especially in English ones, expressed the Bihoro Air Corps as 'Mihoro'. The name of the town cannot be other than Bihoro. Allied Powers, which inspected the base after the WWII, also recorded it as 'Bihoro'. US National Archives & Records Administration search only hits Bihoro; http://arcweb.archives.gov/arc/basic_search.jsp. Neverthless, it looks it was commonly called as 'Mihoro' in IJN. Why?

基本的に、北海道以外の出身である場合には、同じ日本人でも漢字で表記された先住民であるアイヌの地名は正確に発音しにくいという事実があります。ちなみに、「びほろ」は「ピ・ポロ」、水多く大いなる所という意味です。「ポロ」は札幌の「ポロ」と全く同じです。
Basically, it should be noted, even Japanese from other parts of the country than Hokkaido Island, it is difficult to accurately pronounce the name of the place written in KANJI letters, when the name is made after the Japanese northern aboliginie, AINU's one. For example, 'Bihoro' is from 'PI-PORO, meaning 'a great land with plenty of water'. 'PORO' is exactly the same as 'PORO' in Sapporo.

書面での表記だけでやり取りされている限り、海軍内では正しい音を発音する機会がなかったのかもしれません。
As long as the name is referred on documents, there may had been no chance in IJN to pronounce it correctly.

Chouki_s ちなみに、美幌町旗は、カタカナのビホロをデザインしたものです。For your reference, the flag of the town is actually designed BIHORO in KATAKANA.

(last updated on 06/20/09)

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16 June 2009

美幌空の開隊 Foundation of the Bihoro Air Corps 2/3

美幌空の896日のうち、17日目の出来事です。

書棚にある「史話・美幌海軍航空隊」によれば、開隊式は昭和15年10月17日に隊内の格納庫で行われたようです。関係者が招待されたようですが、軍事機密として当時の新聞には一行の記事もないにもかかわらず、駅前と美幌舘横(北二)に祝賀門を立てて町中が開町以来の大盛事として祝賀ムードだったとか。

実際、口コミで、町内のみならず網走や津別のような近隣の町村からも多くの参観者があったようです。赤ん坊をおぶり、6キロの道のりを歩いてお祝いに出かけた方(旭通りの酒井キミさん)のお話しが載っています。町の人たちがみんな、お祝いに歩いて行ったようです。

大きい建物が立ち並んで見事であったが、楽しみにしていた飛行機がわずか1機しか見当たらず、期待はずれだったようです。前述のとおり、本隊はまだ千葉・木更津基地に集合中でした。

深まる秋の一日、遠足のように市街地から人の流れが町の続く、そんな情景が想像されるところです。

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06 May 2009

昭和20年6・7月の美幌基地 Bihoro Air Base in June/July 1945

昭和20年6月1日、松島空・七〇六空の残存一式と九六式が、美幌基地へ移動となりました。これは、沖縄戦の大勢が既に決した頃であり、本土決戦を想定しつつ、実際には発動されなかった「剣」作戦の準備が始まろうとしていた時期にあたります。

美幌に移動したのはこの「剣」作戦に含まれなかった戦力であり、網走沖のオホーツク海上で、雷撃行動や機雷投下の訓練が行われていたようです。

昭和20年7月、三沢基地や松島基地で機材が損害を受けると、在美幌の松島空より人員・機材が徴発されたようで、美幌基地はより後方の備えとなっていた模様です。ただ、アリューシャン方面からの米軍の南下に対し、索敵攻撃として数機単位で発進することはあったようです。

美幌第二基地(女満別)では、輸送機隊による片道特攻の訓練が行われていたようです。

こうして、美幌基地にも終戦の日が近づいてきました。

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05 May 2009

地下秘密基地の零戦 Zero Fighters in Secret Underground Base?

「秘密の地下基地がある」との噂について、私は美幌駐屯地を訪ねたときには承知しておらす、今も調べてみてはいませんが、陸上自衛隊美幌駐屯地広報担当の方にうかがったところによれば、

- そのようなものはない
- 自分の父親が当時周辺に住んでいて基地の人と行き来があったが、そのような話があれば絶対に何か聞いているはず、従ってありえない話
- 終戦間際にも零戦はあったかもしれないが、修理を要するもの等で実戦に使えるものはなかったのではないか、
- 崖からカタパルト発進する、などというようなことを言っている人もいるようだが、それは考えるまでもなく無理

というお話でした。

実際、飛行隊の運用を少しでも考えてみれば、つまり、整備した機体を使って、必要な時に飛び立って作戦行動し、着陸し、そして格納してまた整備する、その時間的・空間的な広がりを考えれば、地下基地に機体が隠してあるというような物語的な発想は出てこないものと思います。

万一、そのようなものを建設する余力が当時の我が国にもしあったとしても、想定されていた連合軍の上陸作戦への対策として戦略的な価値があるとは思われず、やはり空想の域を出ないものと言えるでしょう。

なお、本部庁舎の建物の形状が、普通なら玄関は「辺」の位置にあるところ「角」のところにある特徴的なもので、これは軍艦の舳先を模した海軍独特のもの、とのお話を同じく駐屯地広報の方から伺いました。このあたりが、「航空母艦のような地下基地」といった空想を呼ぶのかもしれません。マイフォト「旧海軍美幌基地」をご参照下さい。

ちなみに、網走他の囚人が基地建設に動員されるのは、このような意味での秘密の設備だからでなく、軍関係施設であれば当時としては珍しいことではなかったようです。美幌基地の建設当初もそうであったことは、前述したとおりです。

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30 April 2009

昭和20年9月の美幌基地 Bihoro Air Base in September 1945

書棚にある「史話・海軍美幌航空隊」によれば、GHQの要求により昭和20年9月1日現在で報告された保有機数は、以下のとおりとされているようです。
According to the 'Stories of Bihoro Naval Air Corps' in my bookshelf, reported nunmber of airplanes in response to the request by General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ/SCAP)are as follows;

美幌第一基地(美幌)62 Bihoro 1st Base-Bihoro

九七艦攻   7 B5N1 'Kate'
天山艦攻   3 B6N 'Jill'
彩雲偵察   1 C6N1 'MYRT'
九六陸攻  23 G3M 'Nell'
一式陸攻   8 G4M1 'Betty'
九三中練  20  K5Y1

美幌第二基地(女満別)25 Bihoro 2nd Base-Memanbetsu

九六陸攻   5 G3M 'Nell'
一式陸攻   1 G4M1 'Betty'
零式輸送   3 L2D 'Tabby'
白菊練習  16 K11W

美幌第三基地(小清水) 0 Bihoro 3rd Base-Koshimizu

すでに、実質的な迎撃戦力は存在していないことがわかります。特に、戦闘機が全くないことが目を引き、昭和20年7月の米国海軍機動部隊による北海道空襲に際しても、迎撃が事実上不可能であったものと思われます。搭乗員の訓練、来るべき本土上陸に際しては特攻戦力として機能するよう、分散配置されていたのではないかと思われます。
It is clear that there were no intercepter forces.  Especially, the fact that there is no fighter airplanes draw attention, thus no effective action could be taken in the Hokkaido Air Raid by US Naval Task Force in July 1945.  Those airplanes were placed in a scattered manner, for pilot training purpose or special attacking when landing attack to the main lands of Japan.

(original on 03/06/09, last updated on 04/30/09)

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