美幌海軍航空隊と基地の歴史 Stories of the Bihoro Naval Air Squadron and its Air Base

美幌海軍航空隊の歴史は、七〇一空となってからの時期を合わせ、昭和15年10月1日から昭和18年3月15日までの約2年半、正確には896日間のみです。この間、帝国海軍基地航空部隊の一部として、中国大陸、マレー、ソロモン諸島方面にて作戦に従事しました。
The history of the Bihoro Naval Air Squadron (NAS), including the period after renaming to the 701st NAS, is only two and a half years, more accurately 895 days, from 1 October 1941 to 15 March 1943.  During the time, it was involved in several operations as a part of IJN land based air forces in main land China, Malay and Salomon Islands.

九六式陸攻を擁して広範囲に活躍し、一度は地元である北海道・美幌町に凱旋した部隊でしたが、最終的には南太平洋のラバウルで消耗しほぼ全滅に近い形で解隊されたのでした。
Using Type 96 RIKKO's or code name 'Nell', it was successfully operating in wide area, and once made a triumphant return to the home town, Bihoro, Hokkaido.  However, it was heavily exhausted, almost anihilated and finally dissolved in Rabaul, Southern Pacific.

ここでは、その栄光と悲劇の歴史について、手元にある各種資料に基づいて少しずつではありますが記していきます。
Let me tell you about the history of honor and tragedy one by one, based on the materials available in my hand.

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目次 Contents (かなり工事中です)

1 はじめに

 1) 中攻について
 2) 中攻会・中攻の会 CHUKO-KAI/CHUKO-NO-KAI
 3) 戦局全般について 

2 美幌海軍航空隊の歴史 History of the Bihoro Naval Air Squadron

 1) 美幌海軍航空隊の開隊
 2) 中支作戦(重慶爆撃他)
 3) 第一段作戦(マレー沖海戦他)
 4) 美幌への凱旋
 5) ラバウル進出(レンネル島沖海戦他)
 6) 美幌海軍航空隊の解隊

3 海軍美幌基地の歴史 History of the Naval Bihoro Air Base

 1) 基地建設から空地分離まで
 2) 基地の様子
 3) 後方基地としての役割
 4) 海軍航空廠
 5) 連合軍による占領 Occupation by the Allied Forces

4 サイド・ストーリー

 1) 英国Z部隊とシンガポール陥落
 2) 空母冲鷹と双子の米国潜水艦
 3) 美幌町議会看板論争
 4) 北海道空襲 Hokkaido Air Raid
 5) (つづく)

(original 03/26/05; last updated on 12/06/20)

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09 September 2021

重慶爆撃と復旧作業の映像

米国国立公文書館のHPで公開されている、重慶爆撃とその後の復旧作業、それを指導する蒋介石夫人の様子が、ニュース映画「United News」のトップ項目となっています。

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CHUNGKING BOMBED AGAIN - FIGHTS ON [ETC.]
https://catalog.archives.gov/id/38928 Narac_1

Scope & Content

Part 1, General and Madame Chiang Kai-shek observe citizens of Chungking rebuilding their rubbled homes.
Part 2, Gen. Arnold decorates Air Force flyers.
Part 3, a large oil tanker is launched.
Part 4, Turkish newsmen lay a wreath on the Unknown Soldier's Tomb in Arlington, Virginia.
Part 5, citizens of San Francisco's Chinatown view a captured Japanese submarine. Shows a dragon dance in the street.
Part 6, Clark Gable is commissioned.
Part 7, Brazilian troops debark at a port in Brazil.
Part 8, the Dionne quintuplets sell bonds in Toronto.
Part 9, Gen. MacArthur and Gen. Thomas Blamey inspect positions in the New Guinea jungle.

Photo_20210909164101 0:08

Photo_20210909164301 0:37

Photo_20210909164501 0:52 爆撃の様子

Photo_20210909165801 0:55 破壊された市街地

Photo_20210909164701 1:06 復旧作業

Photo_20210909164901 1:08 蒋介石夫人の三姉妹

Photo_20210909165101 1:10 蒋介石

Part 2, Gen. Arnold decorates Air Force flyers.
(ここまで短縮版には収録;以下はなし)
Part 3, a large oil tanker is launched.
Part 4, Turkish newsmen lay a wreath on the Unknown Soldier's Tomb in Arlington, Virginia.
Part 5, citizens of San Francisco's Chinatown view a captured Japanese submarine. Shows a dragon dance in the street.
Part 6, Clark Gable is commissioned.
Part 7, Brazilian troops debark at a port in Brazil.
Part 8, the Dionne quintuplets sell bonds in Toronto.
Part 9, Gen. MacArthur and Gen. Thomas Blamey inspect positions in the New Guinea jungle.

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27 May 2021

第八騎兵連隊の北海道帰還 1951年12月~1952年1月

朝鮮戦争の前線から、第一騎兵師団が交替するために1951年末前後に北海道へ移駐しました。

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RETURN OF FIRST CAVALRY DIVISION, (8TH CAVALRY REGIMENT), JAPAN 
https://catalog.archives.gov/id/25103 Narac_1

第一騎兵師団のうち第八騎兵連隊は、攻撃輸送艦ピッカウェイ(USS Pickaway; PA-222)で室蘭に上陸したようです。

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室蘭上陸は1952年1月のようで、スキーの画はそれより前に到着した部隊かもしれません。

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連合軍による占領 Occupation by Allied Forces」に戻る。

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27 April 2021

「航空ファン」連載記事「九六陸攻戦史」佐藤暢彦

少し前になってしまいますが、美幌空が使い続けた九六陸攻の歴史についての連載がありました。事前予約なしだと利用困難な国会図書館で、遠隔複写(有料)が利用できるので、便利なように一覧を載せておきたいと思います。

URL タイトル 掲載誌情報
http://id.ndl.go.jp/bib/027558527 九六陸攻戦史 三日間の悪夢・渡洋爆撃の真実 航空ファン 65 9 65(9)=765:2016.9 p.78-87
http://id.ndl.go.jp/bib/027863278 九六陸攻戦史(2)一下士官が見た青年士官群像 : 支那事変緒戦の中攻隊 航空ファン 66 3 66(3)=771:2017.3 p.79-88
http://id.ndl.go.jp/bib/028289687 九六陸攻戦史(3)映画に描かれた大空中戦 : 昭和13年の海軍中攻隊 航空ファン 66 7 66(7)=775:2017.7 p.82-91
http://id.ndl.go.jp/bib/028401499 九六陸攻戦史(4)空中艦隊、重慶へ : 昭和14年の海軍中攻隊(1) 航空ファン 66 9 66(9)=777:2017.9 p.78-87
http://id.ndl.go.jp/bib/028569677 九六陸攻戦史(5)漢口被爆と大西瀧治郎の慧眼 : 昭和14年の海軍中攻隊(2) 航空ファン 66 11 66(11)=779:2017.11 p.82-91
http://id.ndl.go.jp/bib/028706548 九六陸攻戦史(6)百一号作戦 渡洋爆撃の青年士官重慶に死す : 昭和15年の海軍中攻隊(1) 航空ファン 67 1 67(1)=781:2018.1 p.82-91
http://id.ndl.go.jp/bib/028793800 九六陸攻戦史(7)零戦の登場と南進政策への転換 : 昭和15年の海軍中攻隊(2) 航空ファン 67 3 67(3)=783:2018.3 p.76-85
http://id.ndl.go.jp/bib/029018474 九六陸攻戦史(8)美幌空の苦闘、そして後継陸攻の出現 : 昭和16年の海軍中攻隊(1) 航空ファン 67 6 67(6)=786:2018.6 p.76-85
http://id.ndl.go.jp/bib/029122917 九六陸攻戦史(9)百二号作戦、隠密偵察、そして突然の作戦終了 : 昭和16年の海軍中攻隊(2) 航空ファン 67 8 67(8)=788:2018.8 p.70-79
http://id.ndl.go.jp/bib/029274266 九六陸攻戦史(10)太平洋戦争開戦当日の海軍中攻隊 航空ファン 67 11 67(11)=791:2018.11 p.78-87
http://id.ndl.go.jp/bib/029354743 九六陸攻戦史(11)マレー沖海戦、九六陸攻かく戦えり 航空ファン 68 1 68(1)=793:2019.1 p.82-91
http://id.ndl.go.jp/bib/029460311 九六陸攻戦史(12)第一航空隊外史 : 「原田機事件」と落下傘降下作戦 航空ファン 68 3 68(3)=795:2019.3 p.82-91
http://id.ndl.go.jp/bib/029586625 九六陸攻戦史(13)ただ一回の空母部隊との戦い : 昭和17年緒戦の海軍中攻隊 航空ファン 68 5 68(5)=797:2019.5 p.71-80
http://id.ndl.go.jp/bib/029753234 九六陸攻戦史(14)元山空のラバウル進出と珊瑚海海戦 航空ファン 68 7 68(7)=799:2019.7 p.86-95
http://id.ndl.go.jp/bib/029903311 九六陸攻戦史(15)「至宝」ふたりの死、そして美幌空の最期 航空ファン 68 9 68(9)=801:2019.9 p.76-85
http://id.ndl.go.jp/bib/029997376 九六陸攻戦史(16)中部太平洋の落日 : 漸減邀撃戦略の破綻 航空ファン 68 11 68(11)=803:2019.11 p.78-87
http://id.ndl.go.jp/bib/030095463 九六陸攻戦史(17)知られざる九六陸攻部隊 : 空挺隊と対潜掃蕩部隊 航空ファン 69 1 69(1)=805:2020.1 p.76-85
http://id.ndl.go.jp/bib/030227015 九六陸攻戦史(最終回)練習航空隊は沖縄を挟んで : 終戦間際の九六陸攻部隊 航空ファン 69 3 69(3)=807:2020.3 p.76-85

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26 April 2021

第七歩兵師団の北海道進駐 1948年12月

第七歩兵師団の動きについては国会図書館・憲政資料室ではこちらしか見つけられずにおり、かなり断片的な情報となりますが掲載します。

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7th Infantry Division - Unit History (Dec 1948)  Photo_20210408181001

Photo_20210427102001

UNIT HISTORY - 7th Infantry Division
1-DEC TO 31DEC 1945

 

OPERATIONS NARRATIVES

1 概要

12月の間でいえば、朝鮮から日本への移動がその行動の最も主要な内容である。第五七野砲兵大隊、第十三工兵大隊・C中隊、第七医務大隊・D中隊、司令部及び司令部砲兵中隊、師団砲兵大隊の各部隊は、その名の順に10月後半から11月にかけて日本に到着した。

2 部隊の配置

12月10日、第五一一及び第五一二需品選択派遣隊は活動停止の状態に減員され、第七歩兵師団の中に再配置された。

月の前半には、第三一歩兵連隊がキャンプ・ホーゲンから恒久的な基地変更により到着した。

第三一歩兵連隊の到着から約一週間後、師団特別部隊及び第七歩兵師団軍楽隊が、恒久的な基地変更により到着した。ほぼ同日に、第七需品中隊及び第七〇七兵器中隊が、キャンプ・シンメルペニヒに到着している。

第三一歩兵連隊の到着から10日後、第三一野砲兵大隊がキャンプ・ヤングハンスに到着。本部隊は従前、朝鮮では軍警察大隊であったもので、現在では口径・中の野砲兵大隊として編成されている。

第三一歩兵連隊の到着から程なくして、第七通信中隊、第十三戦闘工兵大隊の残存部隊、第七医務大隊及び第七歩兵師団司令部が、恒久的な基地変更により到着した。

この月の間に、医務派遣隊、整備中隊及び第十七歩兵連隊・第一大隊は、作戦可能となった。

副師団長のエドウィン・W・ピバーン准将が、第九軍団への事前説明のための訪問の後、1948年12月10日にキャンプ・クロフォードに到着した。

3 訓練

朝鮮からの移動の前に、第七歩兵師団の各部隊は日本への移動のための準備を行い、1948年9月23日付、第七歩兵師団司令部のTM No.4 (訓練手順書第四号?)に記された訓練を実施した。本訓練は、昇進者向け、幹部向け、搭乗員が操作する兵器、OJT訓練、戦闘時発砲を含む小集団訓練を含んでいる。第七師団砲兵隊の各部隊は、週次訓練を実施。日本への到着に際して、第七歩兵師団の全ての部隊は第九軍団の下に置かれて第十一空挺師団付属となり、第十一空挺師団司令部のTM No.5に記されたとおり、基本、冬季、昇進者向け各訓練を含む。

第十三工兵大隊・C中隊はOJT訓練中で、本州の作並付近にて高さ32m(105フィート)の建物建設並びに道路修理を行っている。

第三一歩兵連隊は、第二・第三大隊が恒久的な基地変更によるキャンプ・ホーゲンからキャンプ・クロフォードへの移動について、準備作業を行った。第三一歩兵連隊・第一大隊は、第五一一落下傘歩兵連隊の転出に伴い、キャンプ・ホーゲンにおける活動引継のための準備を行った。

第五一野砲兵連隊及び第七歩兵師団砲兵隊本部は、第十一空挺師団司令部のTM No.15に基づく訓練を実施した。

4 学校(省略)

5 情報及び教育(省略)

 

INTELLIGENCE NARATIVE(省略)

SECTION I - GENERAL(省略)

SECTION II - QUARTERMASTER(省略)

SECTION III - FOOD SUPPLY(省略)

SECTION IV - ORDNANCE(省略)

1 General(省略)
2 Ammunition Section
北海道の厚別弾薬庫(第九軍団施設)は、以後第七歩兵師団の管理するところとなる。特別な不足等は生じていない。この弾薬庫の状況は、極めて良好。
3 Ordnance Supply(省略)
4 Armament Maintenance(省略)
5 Automotive Maintenance(省略)

 

SUPPLY NARATIVE(省略)

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25 April 2021

在道米軍の概略史と第一騎兵師団の進駐

西部開拓時代から「ファースト・チーム」と呼ばれている米国陸軍・第一騎兵師団は、北海道に進駐した五つの師団のうちの最後となった部隊です。朝鮮戦争の前線から北海道に戻り、訓練を行いながら再び傘下部隊を前線に送り出したりしたあと、最後には日本の独立に伴って韓国へ移駐しました。

美幌他道東への派遣は特になかったようで、朝鮮戦争の前線へ向かう部隊の保養・訓練地としての北海道の位置づけがよくわかるように思います。また、洞爺丸台風の犠牲者に関係者がいたことも初めて知りました。

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1st Cavalry Division - The OutPost (first-team.us)

Return to Japan 1951-1957

(長いので見出しを付しています。)

1 第七七歩兵師団・第十一空挺師団・第七歩兵師団・第四五歩兵師団の駐留(1945年10月~1951年12月)

第一騎兵師団が「ジェームズタウンライン」(訳注:国連軍による防御線)から引き離されて予備兵力とされた直後、師団は北方の島、北海道の山岳地帯にて強力な防衛軍事的な存在を確立すべしという新たな任務についての命令が下がった。北海道は、日本の主要四島のうちで二番目に大きい。北海道の気候は、冬は寒くて厳しいが夏は日本の他の地域ほど暑くなく湿気もない。第一騎兵師団を日本の北方にある北海道に引き継いで移管する理由は、ソビエト社会主義連邦共和国(ソ連)が東方に勢力を伸ばし影響力を拡大するのを阻止するための、長年にわたる戦略にある。

第二次世界大戦における連合国間の交渉において、ヨシフ・スターリンは、対日戦へのソ連の参戦と引き換えに、樺太、北海道、千島列島の島々を占領する意思を鮮明にした。ルーズベルト大統領は反対したが、戦争の終結までには、ソ連軍は樺太と千島列島を占領し、北海道への侵攻を準備していた。いかなる行動をも防ぐため、直前まで沖縄にて血にまみれた戦いで消耗した第七七歩兵師団は、日本軍の各駐屯地を武装解除し米国の確固たる支配権を確立するために北海道へ急行した。第七七師団の各連隊は、道都・旭川、主要都市である札幌(ママ)、日本海軍航空の訓練基地があった千歳にその地を定めた。

第七七師団が復員となった昭和21年初頭、第十一空挺師団の第五一一落下傘歩兵連隊が北海道全体の責任を負うこととなり、札幌にある日本の酪農試験場敷地内に本部を設置した。駐屯地は、殊勲十字架を授与された少佐の名を取ってキャンプ・クロフォードと名付けられ、煉瓦の兵舎や漆喰の管理棟、家族用住宅や全学年を備えた学校、倶楽部、補助施設を備えた恒久的な施設に徐々になっていった。昭和23年、第七歩兵師団・第三一歩兵連隊は、朝鮮からキャンプ・クロフォードに移駐して第五一一落下傘歩兵連隊の要員のほとんどを吸収している。

第三一歩兵連隊は、第一次世界大戦中にシベリアに進出し、第二次世界大戦中にバターンで最後まで戦った有名な「北極熊連隊」であり、昭和23年から25年まで北海道に駐留した。第七歩兵師団の残りの部隊は、最大の島である本州の仙台近郊に駐留していた。昭和25年に朝鮮戦争が勃発した際には、第七歩兵師団は7月上旬と8月に、朝鮮に配備された第二四歩兵、第二五歩兵、第一騎兵の各師団に部隊を派遣した。

昭和26年春に第七歩兵師団が朝鮮への輪番異動を開始すると、オクラホマ州の州兵部隊である第四五歩兵師団が北海道に到着し、ソ連侵攻の可能性に対して示威を継続した。師団はキャンプ・クロフォードに司令部、訓練部隊、工兵隊、特殊部隊、一個歩兵連隊を設置し、キャンプ千歳の「かまぼこ」兵舎に砲兵隊、一個戦車大隊、二個歩兵連隊が収容された。第四五師団は、昭和27年に朝鮮中央部にあった第一騎兵師団と交代した後に予想される戦闘に十分備えるため、昭和26年の間を通じて厳しい訓練を継続した。

輪番異動を行うため、第四五歩兵師団は、第一騎兵師団の任務を引き受けるために北海道から移動しなければならない。各中隊レベルに及ぶ両師団の先遣部隊は、移動を容易にするために新任地へ飛行機で向かった。両師団本隊の移送は、四つの主要な段階を踏んで海路にて完了した。

 

2 前線から室蘭、千歳へ移駐(1951年12月~1952年1月)

朝鮮を離れる最初の連隊として、第五騎兵連隊が第一八〇歩兵連隊と交代して予備兵力となった。12月7日、第五騎兵連隊は仁川を離れた。4日後、その船団は北海道の南東海岸にある室蘭港に入港、キャンプ千歳・エリア1への移動は列車で完了した。12月18日、第七騎兵連隊は朝鮮を出発。12月30日、朝鮮で敵と最初に交戦した連隊である第八騎兵連隊は、その装備を第二七九歩兵連隊に引き渡して、交戦地帯の丘陵を隊列で移動して、海岸線でLSTに乗り込んだ。最後に移動したのが第七七野砲兵連隊で、昭和26年が終わる頃に戦線から離れた。昭和27年1月12日、第七七歩兵連隊は朝鮮を離れて1月16日に室蘭港に到着。昭和25年7月の浦項洞上陸からちょうど18ヶ月の後、朝鮮から北海道への第一騎兵師団の移転を締めくくった。

北海道への輪番異動において第一騎兵師団は、朝鮮戦線への再投入が必要な場合に備えた最高の戦闘準備状況を維持しながら、北海道の島を守るという任務を割り当てられた。日本の最北の島である北海道は、確かに極寒の地である。特徴的にアジア大陸への戦略的近接性を持つ北海道は、ロシアの活動に関する情報収集のための電子監視の重要な中心地であった。島の北端は、ロシア領の大きな島である樺太や、同じくロシア領である千島列島からもほんの数kmしかない。北海道における電子諜報基地とレーダーセンターの大半は、ロシアの放送を監視しロシアの全ての航空機の動きを追跡するのに加える形で、米空軍によって制御・管理されていた。

トーマス・L・ハロルド少将の指揮下、当師団は63ヘクタール(155千エーカー)の巨大な訓練場を持っていた。新しい駐屯地では、部隊は米国内のキャンプに匹敵する施設にありついた。第一騎兵師団本部と第七騎兵連隊は、札幌郊外のキャンプ・クロフォードでスチーム暖房のある赤煉瓦兵舎に駐留した。キャンプ・クロフォードは、日本の農林省が運営する(ママ)日本最大の酪農場である真駒内種畜場の場所に昭和21年に建設された。第五騎兵連隊は、札幌の南東40km(25マイル)、千歳空軍基地と、その名前の元である日本の町・千歳に隣接するキャンプ千歳・エリア1に駐留した。千歳の東約6km(4マイル)には、第八騎兵連隊、第七〇戦車大隊がキャンプ千歳・エリア2の新しい「かまぼこ兵舎」に入った。

 

3 北海道における訓練等(1952年3月~7月)

主たる指揮官たちが到着すると直ちに、北海道島の防衛計画が策定された。計画の要素には、受動的防空、市民の擾乱警報、社会的弱者避難計画、生物・化学兵器及び放射線防御訓練が含まれている。これらに加え、身体強化訓練、地図読取り、地雷と野戦要塞、信号通信、迷彩、応急処置、戦術組織と配置を含む基本訓練要綱策定作業を開始した。北海道の気候や地形は、極地生存手段、スキー、「かんじき」の指導に最適であった。これらの活動と並行して、師団は北海道島の徹底的な空中偵察と地図作成を行い、昭和27年初頭までには、第一騎兵師団は北海道の厳しい寒さと大雪にほぼ慣れることができていた。

3月7日、北海道の島は第一騎兵師団の部隊に不意打ちの歓迎を示した。(訳注:十勝沖地震、正しくは4日)地面になぎ倒されるというよくある現象に加えて、地震は「かまぼこ兵舎」のコンクリートの床を割り、頭上の水道管と蒸気管を破壊した。工兵隊は、通常の隊内生活を復元するという大きな任務を負うこととなった。

4月末までに、当初の訓練計画は師団全ての部隊で完了し、新しい次元のそれが追加された。4月21日、航空輸送訓練の計画が具現化したのである。

その訓練は、部隊の航空移動原則に集中した第一八七落下傘歩兵連隊の将校と兵の一団によって行われた。6月1日、空路で戦い臨む方法を学んだ部隊は、(海兵隊)A機動訓練班(MTTC "A")の要員が実施する水陸両用訓練課程の開始に伴い、海からの攻撃についての広範な訓練を開始した。6月末までに、軽飛行機訓練の新しい課程が導入され、実地演習の形で軽飛行機を使用する人員の訓練が可能となった。

昭和27年夏の海軍による水上作戦は、主に朝鮮半島沿岸の日常的な哨戒及び封鎖、機雷掃海作戦、さらに敵の通信網を妨害・断絶するための海岸沿いの標的への砲撃で構成されていた。しかし、最大の海軍作戦である第七水陸両用任務部隊は、北朝鮮東海岸の庫底で計画された演習及び展示であった。

7月には、陸軍にとって海軍作戦に関連して大規模な部隊移動と上陸演習を行うことは経済的に有益であろうとの判断がなされた。この陸海合同演習は、共産主義者に新たな土地への侵略が進行中であることを警告する機会となるかもしれない。しかし、部隊移動の主な理由のひとつは日本には十分な駐屯のための施設が無いことなのであって、陸軍は第一騎兵師団の三個連隊戦闘部隊(RCT)を一度に一つずつ朝鮮に呼び戻すことを決定した。

 

4 戦闘部隊(RCT)の前線への再派遣(1952年10月)

海軍はいくつかの作戦に心からの賛同を示し、水陸両用演習の実施を提案した。これにより、あわよくば敵の増援部隊を路上に誘き出し、味方航空機及び水上艦艇からの攻撃にさらすことができるかもしれない。第七艦隊司令長官ロバート・P・ブリスコ中将の下、第七合同水陸両用任務部隊が、10月15日を目標として設立された。演習は北朝鮮の庫底近郊で予定され、陸海空の計画策定は速いペースで進んだ。代替攻撃計画も二つ策定された。一つは二個師団が一団なって行う上陸、もう1つは一個連隊戦闘部隊単独での攻撃である。欺瞞目的のために、司令部の最高位の者たちだけが、これらの動きが演習であることを知っていた。

各連隊戦闘部隊を朝鮮に再配備するために準備された60日間の任務旅程のための師団による支援計画は、「囮作戦」と命名された。昭和27年10月5日、第八騎兵連隊は、第九九野砲兵大隊C中隊、第二九対空砲兵自動火器大隊、第二水陸両用工兵特別旅団の一部とともに、10月12日に実施される南朝鮮の江陵近郊の海岸への上陸演習に備えて、キャンプ千歳エリアを小樽に向けて出発した。歴史は、第八騎兵連隊の上に繰り返される。というのも、連隊は、2年3ヶ月前の朝鮮戦争最初の上陸作戦に参加していたからである。

第八騎兵連隊を乗せた水陸両用艦が、北海道から出航した。10月12日、作戦3日前、13m/秒(25ノット)の風に悩まされながら、江陵にて計画された演習が実施された。海岸に到達した際、上陸用舟艇四隻、車両、人員(LCRP)が失われたので、演習は中止を余儀なくされた。翌日、すべての部隊が再び動き出しさらに北に向かって航行した。次の3日間、同様の気象条件に悩まされながら、極東空軍(FEAF)と第五航空軍は、庫底周辺での作戦を強化。これを支援する海軍空母からの航空機が参加し、庫底付近の敵陣地と北朝鮮海軍の水上艦艇を目標とした。

10月15日、北朝鮮東海岸沖、庫底海岸付近に到着した攻撃輸送艦ベイフィールドに乗った第八騎兵連隊戦闘部隊は、戦艦アイオワに率いられた護衛空母シシリー及び空母バドエンストレイトを含む100隻以上の艦隊と合同した。午後2時00分、上陸用舟艇が上陸準備のために発進。欺瞞の一種として、部隊は船の舷側を越えるのだがそれが輸送艦の周りを回るときに海側でこれに拾われて、また次に送られる。このように活動することで、北朝鮮軍には舟艇が海岸に向かうときにまた積み込んだという錯覚を与えることになる。

上陸用舟艇計七波が出発線を通過して輸送海面に送られ、その後、海の方に退避した。欺瞞突撃上陸の間、各艇長の技量のおかげでこれらの舟艇が失われたり損傷したりすることはなかった。しかし、機雷掃海艇二隻が海岸からの砲火の命中弾を受け、艦載機五機が敵の対空砲火によって失われた。

巧妙な計画に対する敵の反応は、残念なものであった。重要な部隊の移送の証拠はほとんど明るみに出ることなく、共産主義者の海岸線の砲門は突撃部隊に対して少数の応答弾を発射するのみであった。これが、迅速に対応する機動力の欠如を示しているのか、国連司令部(UNC)部隊が上陸するまで待ってから反撃を開始しようとしているのか、推測するのは不可能である。この作戦が欺瞞作戦に過ぎなかったということが分って、秘密の中にいなかった全ての国連軍司令部要員の不満を明らかに増すことになった。作戦計画と実施の現実味が国連軍司令部の期待を作り上げたのであり、訓練自体が有益であったと判断されたことが士気の毀損を埋め合わせて余りある。

演習完了後、攻撃輸送艦ベイフィールドは38度線を横切って浦項洞(昭和25年7月に第一騎兵師団が上陸したのと同じ海岸)に南下し、第八騎兵連隊戦闘部隊は当初の計画通り海岸への上陸を実施した。上陸着陸演習が完了した後、第八騎兵連隊戦闘部隊は、韓国・釜山郊外のキャンプ東萊に向け南下した。

 

5 韓国での警備任務(1952年10月)

11月には、第八騎兵連隊戦闘部隊の一部が第七七二軍警察大隊に派遣された。この分派は、第一騎兵師団の各部隊によって行われた一連の警備任務のうちの最初のものである。この期間中、騎兵は軍警察の腕章を着用し、列車に乗り、操車場の警備を行った。操車場では、移送中や積込中の鉄道車両の警備を提供するために、部隊は韓国警察と一緒に「散弾銃」を装備していた。国連エクスプレス客車の任務に就いた者たちは、Aクラスの制服で任務を行い、道中米国並みの任務を果たした。

軍警察の任務のもう一つの事例としては、負傷した国連または敵の兵士を運ぶ病院列車の警備がある。その後2ヶ月間、連隊は主な戦闘から離れて、慣れ親しんだ釜山及び大邱の周辺で警備任務に当たった。

昭和27年12月8日、第七騎兵連隊(戦車中隊と戦車整備隊を除く)、第七七野砲大隊とB中隊、第二九対空砲兵自動火器大隊は小樽にむけてキャンプ・クロフォードを出発し、第八騎兵連隊との交代のため12月12日に釜山に向けて出港した。12月15日、第七騎兵連隊戦闘部隊が釜山に到着し、韓国のキャンプ東萊で戦時捕虜を警備していた第八騎兵連隊戦闘部隊と交代。12月18日、第八騎兵連隊戦闘部隊が小樽に到着し、12月20日までに第八騎兵連隊、第九九野砲兵大隊とC中隊、第二九対空砲兵自動火器大隊は、クリスマスを祝い冬季訓練課程に参加するために北海道に戻った。

第七騎兵連隊戦闘部隊の任務は、韓国通信ゾーン(KCOMZ)に戦術的支援を提供することであった。二次的な使命は、専門訓練との組み合わせにより重要な地区へ警備部隊を提供することであった。第一大隊は釜山地区の大山学校に駐屯し港湾警備を割り当てられ、第二大隊はKCOMZ本部エリアの警備を割り当てられて釜山大邱鉄道の列車警備を提供し、重迫撃砲中隊は国連市民援助司令部(UNCACK)警備を提供した。12月19日、第三大隊とB中隊、第二九対空砲兵自動火器大隊は、巨済島の国連戦時捕虜司令部に戦時捕虜司令部の予備兵力として派遣され、E中隊は大田で警備任務を割り当てられた。第七七野砲兵大隊はイションニに収容され、全ての中隊の訓練を実施。L-19航空機二機からなる航空隊の搭乗員は、中隊整備部隊への観測飛行に加えて緊急飛行を実施。各部隊においては、医療および整備要員が増強された。

昭和28年2月10日、第五騎兵連隊、第六一野戦砲兵大隊とA中隊、第二九対空砲兵自動火器大隊は、第七騎兵連隊戦闘部隊と交代するために小樽から韓国の釜山と巨済島に向けて出発した。2月15日、第七騎兵連隊戦闘部隊を乗せた船団が釜山から出航し、2月18日に小樽へ入渠した。最後の部隊のキャンプ千歳への移動は、鉄道で行われた。2月20日までに、朝鮮での任務から解放された第七騎兵連隊は、冬季訓練課程に割り当てられた。韓国では、第五騎兵連隊本部が釜山郊外に駐留。第一大隊は釜山から大邱までの地域の警備任務を割り当てられ、第二大隊は大邱から大田までの地域から割り当てられ、第三大隊は大田からソウルまでの地域を担当していた。4月27日、第五騎兵連隊戦闘部隊の全部隊は北海道のキャンプ千歳エリア1に戻り、第三大隊と重迫撃砲中隊は警備任務のために残留した。

6月には、第八二野砲兵大隊はフォートナイト作戦を実施、その間に大隊は二週間の演習で260km(160マイル)以上を移動した。7月には水陸両用訓練が再開され、7月16日、第五騎兵連隊は室蘭半島への10日間の自動車並びに徒歩による偵察行軍を完了した。韓国に残った部隊は、KCOMZの支配下で警備任務を続けた。

 

6 朝鮮戦争休戦と北海道・本州・硫黄島での訓練(1953年7月~1954年6月)

昭和28年7月27日午前10時、待望の休戦協定が調印されたとき、朝鮮戦争は交渉による停戦となった。幅4km、長さ249kmの回廊である非武装地帯(DMZ)が、南北を隔てて設置された。緩衝地帯の公称線は38度線に平行している。しかし、隣接する地域についての最終交渉で、北朝鮮政府に38度線の南約220千ヘクタール(850平方マイル)、そして韓国政府に38度線の北約608千ヘクタール(2,350平方マイル)が与えられている。

昭和28年9月9日、第五騎兵連隊第三大隊及び重迫撃砲中隊は、朝鮮での七ヶ月間の任務の後、北海道に戻った。10月と11月の間に、本州の茅ヶ崎海岸で上陸訓練を行うため、第七および第八騎兵連隊戦闘部隊の計画が始動している。

昭和28年10月、第一騎兵師団軍楽隊の組織図は、所定の96名から48名の兵士に縮小された。余剰となった楽団員は、第五、第七、第八騎兵連隊に移動となって、様々な機能で連隊を代表する鼓隊とビューグル隊を結成することを認められた。昭和29年7月、軍楽隊は師団の警備任務に代わって、第二の任務として煙幕展開部隊任務が割り当てられた。

昭和29年1月、北海道での3年目を迎え、全部隊向けに冬期訓練を開始。2月15日、第五騎兵連隊・F中隊が戦術的空輸訓練作戦で空に赴いたとき、第一騎兵師団の集中部隊訓練課程に新しい次元が加わった。反復飛行運航システムを用いて、第六回転翼中隊からのH-19ヘリコプターは、キャンプ・シンメルペニヒの根拠地から約50km(30マイル)離れた王城寺原演習場に兵員を輸送した。到着直後、白地の迷彩服に身を包んだ部隊は、完全野戦装備にて作戦準備を行った。2月21日、新しい部隊である第四一歩兵偵察小隊が師団に加わった。

温暖な気候の出現に伴い、師団は航空輸送並びに水陸両用作戦のための広範な訓練を再開した。中隊、大隊、連隊及び師団全体の作戦運用は、秋の早い時期に予定された。

昭和29年9月、日本人は北海道を守る全責任を引き受け、第一騎兵師団のそれまでの根拠地は陸上自衛隊に引き渡された。第一騎兵師団全体が、本州島に移転した。第一騎兵師団及び第五騎兵連隊司令部は、仙台郊外のキャンプ・シンメルペニヒに移転。第七騎兵連隊と第二九対空砲兵自動火器大隊は八戸近郊のキャンプ・ハウゲンに駐留。第八騎兵連隊は港へ自動車輸送を開始してLSTに乗り込み、本州本島への荒っぽい移動のあと東京湾に上陸した。105km(65マイル)の行軍と自動車輸を組み合わせ、東京の北方小泉の近くにあった今は使われていない日本の航空基地、キャンプ・ホイッティントンに到着した。

9月26日、北海道から青森への移動中、台風接近のため青函連絡船・洞爺丸が沈没、第九九野砲大隊は、第八騎兵連隊の兵二名、第十五医療大隊の一名、約千五百人の日本の民間人とともに、士官及び兵三十五名を失った。最終的には、仙台から西へ約55km(35マイル)離れた山形県の神町のキャンプ・ヤングハンスに、全ての砲兵大隊(第六一、七七、八二、九九)が駐屯した。

司令部、司令部整備中隊、特別軍需品派遣隊を含む第八工兵大隊・D中隊は、キャンプ・ローパーの保管地、つまり、シゴマの小さな港から1km(1マイル)、キャンプ・シンメルペニヒから約30km(20マイル)の小さなキャンプに配置された。特別軍需品派遣隊は、地下保管庫にある全ての弾薬を管理し、警備上の都合で 「立入禁止」となっていた。

昭和30年1月には、師団のほとんどが冬季訓練に参加。すべての連隊と師団砲兵大隊は、王城寺原、せきね、ふぎ、おたかに演習場で数週間を費やした。このあと三年間を通じ、部門は本州北部を守るという主たる任務と共に、ほとんど切りのない野戦演習に取り組んでいた。そして、新しい任務要件が確立さて要求が変更されるたびに、各部隊は様々な地域のキャンプに移転した。

昭和31年、第五騎兵連隊は仙台のキャンプ・シンメルペニヒに留まり、第八騎兵連隊は東京の北方の小泉近郊にあるキャンプ・ホイッティントンに残り、第七騎兵連隊は京都近郊のキャンプ大津に移転した。第一騎兵師団砲兵隊と師団音楽隊は、東京郊外のキャンプ・ドレイクに、第七〇戦車大隊はキャンプ富士に、それぞれ駐留。第十三信号中隊は、東京六本木地区のハーディ兵舎に駐留した。

以前、朝鮮戦争前の日本占領時代には、第三近衛歩兵連隊兵舎と命名されていたハーディ兵舎は、第二旅団司令部と第八騎兵連隊の根拠地となった。

昭和31年3月、師団司令部と司令部整備中隊、及び第八工兵大隊・D中隊はキャンプ・ローパーから出て重機はLSTにより移送。人員はトラックの集団で東京郊外のキャンプ・ドレイクに陸上移動、昭和32年に師団が再編成されるまでそこに留まった。

昭和31年5月上旬、上陸演習に備える。太平洋艦隊、上陸部隊訓練班の海兵隊B2-56起動訓練チームが、キャンプホイッティントンに本部を設置し、全ての第八騎兵連隊の兵員のための出撃前訓練教室を開催した。訓練の後、5月28日から6月15日まで、第一騎兵師団と第三海兵師団の一部が硫黄島で水陸両用合同上陸演習を行った。第十三信号中隊と第八騎兵連隊からの各部隊は、空軍要員及び海兵隊無線班と共に、ドック型揚陸艦USSポイントプレザントから離れて活動する攻撃隊を編成した。恐らくは上陸演習におけるヘリコプターの初の使用であり、その揚陸艦は硫黄島の海岸に乗り上げ、第八騎兵連隊の情報・偵察(I&R)小隊は、LSDからヘリで摺鉢山の偵察を行った。

昭和26年12月に第一騎兵師団が朝鮮戦争から北海道に最初に輪番移動して以来、5年8ヶ月間の占領任務が続いていた。多くの占領任務・訓練任務を割り当てられ、配下の舞台は北海道の大部分から本州に分散・移転した。割り当てられた主要な配置場所のため、昭和20年第二次世界大戦終戦時に最初に占領のための司令部を置いた東京郊外キャンプ・ドレイクに、徐々に師団司令部を移していった。

 

6 朝鮮移駐(1953年8月~9月)

昭和32年8月29日、同年に日米両政府が署名した条約に従って、日本本土からすべての米軍の陸軍が退去することが必要となった。東京のキャンプ・ドレイクに司令部を置く第一騎兵師団は、日本の本州に広くに駐留する配下の部隊とともに命令を受けて兵力をゼロに減らし、韓国へ移転(装備を除く)した。昭和32年9月23日、一般司令第89号は第二四歩兵師団を第一騎兵師団に再指定し、「連隊」部隊ではなく五つの「戦闘グループ」運用部隊を利用した「ペントミック」概念の下で師団の再編成命令を発出したのである。

(以上)

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20 April 2021

第一騎兵師団の北海道移駐 1952年1月

米軍側の資料になかなか至らないので、国内の資料から引用させていただきます。第一騎兵師団の終戦にかけての動き、さらにオクラホマ第四五歩兵師団と交代で朝鮮戦争の前線から移駐してきたことが分ります。

半島との地形が似ているという理由で、北海道が後方基地・演習地として機能していたことに驚いています。また、「騎兵師団」が西部劇のときのままの名称であるということにも、驚かされました。

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「続 証言・北海道戦後史 田中道政とその時代」
高橋昭夫 1983年 北海道新聞社

第Ⅳ章 講和条約前夜
5 第一騎兵師団が移駐 83頁~

演習地の要求

 朝鮮半島とよく似た北海道の地形と気象になれるため、千歳と札幌・真駒内に駐留の米第四十五歩兵師団(オクラホマ州兵師団)は、昭和26年4月末から12月初めまで七ヵ月余猛訓練を重ねたのち、戦火が吹き荒れる朝鮮戦線に投入される。この移動は機密裡に行われ、代わって朝鮮戦線から、第一騎兵師団(師団長・トーマス・L・ハロルド少将)が移駐してきた。

「第四十五歩兵師団に代わり朝鮮戦線より本道に来駐せる第一騎兵師団は未だその来駐について公表が行われるに至っていないが、最近大体本道への移動を完了せる趣にて・・・」(札幌連絡調整事務所報告 昭和27年1月14日付=原文のまま)

 移駐の事実の報道が解禁されたのは1月23日GHQ渉外局発表によってであり、第一騎兵師団は在仙台の第十六軍団(軍団長=クロビス・E・バイヤー少将)の指揮下にあった。同師団は米陸軍でもエリート師団、第二次大戦中の昭和18年(1943年)に出征、約三年、南太平洋で戦闘、フィリピンの首都マニラ、日本降伏後の東京に一番乗りする。朝鮮戦争勃発直後、すなわち昭和25年(1950年)7月、日本の関東地方から朝鮮戦線に出撃、506日間も戦った。

 米国西部での対インディアン戦争にまで遡る歴史を持つが、騎兵師団というもののウマは一頭もいず、完全な「機械化兵団」だ。「師団長のハロルド少将はいかにも西部育ち、といった印象で鼻が大きく赤ら顔だが、人のよさが印象的だった」(田中元知事)という。4月28日の講和条約発効を控えて、米軍の最大関心事は基地ならびに演習地の確保であった。「安保条約第三条による取り決め」として2月28日国会の承認なしに日米両政府間で調印され直ちに施行された日米行政協定に基づく日米間協議で北海道側の窓口になったのは、道開発庁への出向から赤レンガに帰り農地部長となっていた渡部以智四郎氏=舷旭川大教授=である。渡部氏は言う。

この折衝は東京で両国レベルで行われたのですが、なにしろ、北海道だけで米軍が全国で使う二分の一以上の演習地を必要とする、というんですな。だから、農林省・平河守農地局長(のち農林大臣)をトップとする委員会のメンバーとして、ほとんど一週間おきずっと上京して協議に加わる羽目になりました。たしか、日米合同委員会陸上演習場文科委員会委員、講和後は、「在日駐留軍司令部」のアルフレッド・パーソル大佐、同ギボン中佐がアチラ側の代表でした。

北海道側の意思はハッキリしていました。「食糧増産をしなければならないのに、畑がジープでかき回されては困る。演習地は一切ご免こうむる」というものです。向こう側は強引だった。初めは真駒内から苫小牧までキロ単位の広い幅の演習用道路が是非必要だ-とガンガンまくしたてるんです。こっちはこっちで、指定された地域は食糧生産にとって大切な農地が多く含まれている、と一々反証をあげて説明したものです。しかし、結局、日米の力関係と国内敵バランスもあって押し切られてしまいました。

 昭和27年7月26日、行政協定によって正式に米軍に提供されることになった全国十七ヵ所の陸上演習場のうち、北海道関係(読売新聞27・7・28)は「厳密な使用条件付き」で、①千歳小火器射撃場②石狩花畔訓練場③沼ノ端(胆振管内)演習場④石切山(札幌)射撃場後月寒演習場(のち米軍が「住民の安全のため」使用中止=朝日新聞28・7・18)⑥豊平演習場(札幌・西岡、有明、滝野)⑦恵庭町被弾地区⑧島松演習場⑨門別高射砲射撃場--の九ヵ所であった。再び渡部さんの話。

このうち最大級規模の島松演習場は戦車の実弾射撃が主で「火山灰地ではないか」というのに対し、私は「土地改良すれば作物がとれる」とやり合い、アチラさんにとって「悪役」ぶりを発揮したものです。結局、これがたたってか、直後の8月に私は農地部長をお払い箱になり、農地部は廃しされ開拓部(現農地開発部)に吸収されました。

これで、米軍演習場問題はケリがついたのではなく、翌28年5月の石川県内灘演習場反対闘争にみられるようにエスカレートしていきました。道内でも「日本で唯一の上陸演習場」として占領時代もオクラホマ師団が訓練のためにやてちた日高海岸門別地方(朝鮮海岸に似た地形)の大幅接収要求をめぐる反対で、今度は十勝海岸大津(現豊頃町)に白羽の矢が立ち、「第二の内灘」とまでウワサされたものですが、朝鮮休戦の実現をへて29年暮れには一服状態になってしまうのです。

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09 April 2021

第一八七滑空歩兵連隊第三大隊の美幌進出 1946年3月

1946年3月、旭川から美幌に進出した第一八七滑空歩兵連隊第三大隊の記録です。北見教会の中川宏師についての記載があります。また、美幌第二飛行場=女満別に、緊急着陸とはいえP-51が飛来したことがあることがわかりました。

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311-INF(187)-0.2: 11th Airborne Division - Unit Histories - 187th Glider Infantry Regiment (1946) Photo_20210408181001 

187 GLIDER INFANTRY Unit History March 1946

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3月(概要)

3月の間に、本連隊の全ての部隊はそれぞれの任務のために北海道の各地に着任した。連隊が仙台に駐屯していた時と比べ、多くの者にとって実際に「占領」任務がより身近なものとなった。

第一大隊は、函館任務部隊が残していった多くの任務を吸収しつつあった。北海道で最大の台風からの避難地である函館港の監視、北海道で最大の(ママ)函館市の監視、割り当て地区全域にわたって監視対象となる地方の監視、等である。これに加え、大隊長であるマンスフィールド少佐は、この時期、総員のキャンプと生活・娯楽施設の改善の指示を行っている。

第二大隊はこの時期、責任地区全域にいくつもの哨戒部隊を送っている。これらのうちの一つが、3月11日に北海道の北端の町・稚内の朝鮮人送還に関する調査のためのものである。別の例として、G中隊が「北海道一周」に送ったものがある。多数の町を調査し、見つけることのできた道路の状態を報告するためである。

第三大隊はこの時期のはじめには旭川にあったが、18日に美幌に移動した。この月の終わりまでには、新しい場所で良い状態にまで整備した。通信の困難が生じたものの、SCR193無線網を本部隊にとっての主たる通信手段とした。通常ではない事態として、8日に本大隊全力が女満別飛行場に進出したが、これは緊急着陸するP-51一機が、自らの基地に戻れるようにするためであった。

この月の間、後にキャンプ・クロフォードとして知られるキャンプ新設のために、資材がRSOに到着しはじめた。この時期に目を引くその他の建設といえば、フォレスト・W・ウォールズ従軍牧師が、後にキャンプ・シーデンバーグとして知られるキャンプ・クレイスに新しい礼拝堂を完成させ除幕式を行った。函館のホワイト従軍牧師と美幌のスミス従軍牧師は、この二つの地区に建設中の礼拝堂は、4月の中旬には完成するものと報告している。

非常に多大な宗教的な援助を連隊の管轄区域内のカトリック神父たちより受けたが、これはまさにそれらの人々の助けによるものである。聖フランシスコ修道院のP・G・ヒューバー神父は、キャンプ・クレイスにて、キナイア神父は室蘭で日曜毎に礼拝を行った。日本・北海道、北見の中川神父は3月中2回、第三大隊の地区で礼拝を行った。

キャンプ・クレイスに設置される連隊中央学校の計画が、策定された。各方面にこの学校がどのように運営されるのか、を説明するためにいくつかの班が派遣された。これに加えて、本連隊より六名の士官が第八軍の情報・教育学校に送られた。

(以下省略)

Ⅰ CHRONOLOGICAL NARRATIVE
Ⅱ COMMUNICATIONS
Ⅲ MEDICS
Ⅳ I & E
Ⅴ RERIGION
Ⅵ SUPPLY

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第十一空挺師団の北海道進出 1946年3月

1946年3月に入ると、旭川にあった第一八七滑空歩兵連隊第三大隊は、美幌に進出しました。

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311-0.3: 11th Airborne Division - Historical Narrative - Japan (Jan - Dec 1946) Photo_20210408181001 

11th Airborne Division Unit History, March 1946

11th_mar46  

11th Airborne Division Unit History
From 1 March 1946 to 31 March 1946

OPERATING NARRATIVE

1 はじめに
(1946年)3月においては、訓練及び各学校は特段の変更なく継続。師団司令部は北海道札幌に移動したが、各参謀部の小規模の後方部門は仙台に残った。

2 作戦内容
3月中には、次の部隊移動が実施された。
・第一八八落下傘歩兵連隊F中隊 キャンプ・シンメルペニヒから船岡へ
・同連隊G中隊 船岡からキャンプ・ローパーへ
・第一五二空挺対空砲大隊3中隊 秋田から大舘へ
・第一二七空挺工兵連隊B中隊 キャンプ・ローパーから札幌へ
・同連隊A中隊 キャンプ・ローパーからキャンプ・シンメルペニヒへ
・同連隊C中隊 キャンプ・シンメルペニヒから八戸へ
・師団司令部及び補助部隊 キャンプ・シンメルペニヒから札幌へ
・第五一一落下傘歩兵連隊D中隊 宮古から盛岡へ
・同連隊C中隊 盛岡から宮古へ
・第一二七空挺工兵連隊司令部、司令部中隊、業務中隊 キャンプ・ローパーからキャンプ・シンメルペニヒへ
・第一八七滑空歩兵連隊第三大隊 旭川から美幌へ
師団のその他の各部隊は、責任地区において定例の哨戒活動を継続している。第一二七空挺工兵大隊は、道路及び諸施設の補修を行っている。しかし、当大隊の主たる任務は、仙台、札幌及び八戸にある既存の施設を永久使用に準ずる水準に改善することである。

3 部隊訓練(省略)
4 情報(省略)
5 教育(省略)
6 各種学校(省略)
7 落下傘学校

INTELLIGENCE NARRATIVE (省略)
SUPPLY NARRATIVE (省略)
PERSONEL NARRATIVE (省略)

TROOP DISPOSITION OVERLAYS(北海道分のみ)
11th_apr46

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08 April 2021

第十一空挺師団の北海道進出 1946年2月

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最初に北海道に入った第七七歩兵師団の予備役復帰に伴い、東北に展開していた第十一空挺師団の一部が北海道に進出します。1946年2月の段階では、札幌、室蘭、函館、旭川に展開しています。

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311-0.3: 11th Airborne Division - Historical Narrative - Japan (Jan - Dec 1946) Photo_20210408181001 

11th Airborne Division Unit History, Febuary 1946

11th_feb46  

11th Airborne Division Unit History
From 1 February 1946 to 28 Febuary 1946

OPERATING NARRATIVE

1 はじめに
(1946年)2月中には、師団の部隊の配置にいくつかの変更があった。情報及び教育と陸軍教育課程の重要性がより強調されている。落下傘部隊、飛行部隊、教育隊は引き続き任務についており、三つの学校が新設された。

2 作戦内容
第十一空挺師団は、北海道島の占領任務を与えられた。次に掲げる部隊が北海道へと移動。
・第一八七滑空歩兵連隊司令部 札幌へ
・同連隊対戦車中隊 函館へ
・同連隊第二大隊 札幌へ
・同連隊第三大隊 旭川へ
・第六七五滑空野砲大隊 室蘭へ
次に掲げる移動は、本州内にて行われた。
・第四七二滑空野砲大隊B中隊 酒田から山形へ
・第一八八落下傘歩兵連隊第二大隊 多賀城海軍工廠から仙台へ
・同連隊G中隊 多賀城海軍工廠から船岡へ
・第五一一落下傘歩兵連隊 八戸から三沢へ
師団の他の部隊は、それぞれの責任区域において定例の哨戒を継続している。第一二七空挺工兵連隊及びその付属部隊は、師団管轄地の兵舎、道路、各施設の整備を行っている。師団管轄地内の全ての軍事目標については、警備のあるなしにかかわらず、第九軍団に報告書が提出されている。

3 部隊訓練
部隊及び特技訓練課程は、天候、再調整、配置変更の影響を受けたものの、継続して実施されている。各部隊は、1945年12月17日に開始された12週間の課程のうちの第三段階に入っている。

4 情報
a. 各部隊とも、師団情報教育隊が毎日発行する「The Static Line」の写しを受領。これに加えて、「Stars and Stripes」が広く配布されている。
b. 各部隊において、最低一週間に1時間を「我々はなぜここに居るのか」という話題についての指導的な議論に費やしている。この議論の時間は中隊長によって行われ、最近では「Maptalk」に出てくる「我々はなぜここに居るのか」という連載が利用されている。この資料は、その場所に関する事項が補足されている。例えば、占領に至るまでの部隊史であるとか、その部隊が利用することのできる教育的・娯楽的施設について、等である。議論そのもの、談話室や情報センターでの具体的な展示、新聞の特集や論説も、全て「我々はなぜここに居るのか」ということについて各個人の認識を高めるために用いられている。
c. ほとんどの部隊では、各週に一度か二度追加的な説明会を予定している。その内容としては、足下の興味に関するもの、退役後の責任や便益、特権についてのものも含まれている。
d. 仙台の米軍ラジオ放送であるWLKEは、教育的・娯楽的内容の放送を継続中。ローカルのレコード・ショーや放送中断の際に行われる短いアナウンスは、情報・教育課程や、特別支援活動、求人、その他師団の福祉と道徳のために重要な活動の広報宣伝となっている。

5 教育
a. 陸軍教育課程は全ての部隊において良く知られており、全ての掲示板においてコースの告知が常時行われている。
b. 師団砲兵隊及び第五一一落下傘連隊の部隊学校が、2月中を通じて開校されている。第一八七滑空歩兵部隊学校は、仙台から北海道への移動に伴い2月の第一週に閉鎖となった。三月のはじめには、大隊レベルで再び開校する計画が進行中である。第一八八落下傘部隊学校は、2月の最終週は一時的に休校している。学校の設備は現在キャンプ・ローパーからキャンプ・シンメルペニヒに回送中である。新しい場所での再開校の日付は、3月の第一週に決定された。

6 各種学校
a. 火焔放射器
(1) 一週間あたり60名に対して、火焔放射器の戦術、整備、作戦について20時間の課程が提供される。
b. 資産会計学校
(1) この学校は、2月中連隊レベルにて実施された。この学校は、全ての補給部員に対して政府資産会計についての6時間の課程を提供するように企画されている。
c. 通信学校
(1) 無線及びテレタイプ機器の操作について、通信員に対して4週間の課程を実施。
d. 食堂管理学校
(1) 大隊若しくは中隊レベルにて調理学校が開校され、課程は4週間続く。
(2) パン焼き職人学校は大隊若しくは中隊レベルにて開校され、課程は3週間続く。
(3) 士官及び下士官学校は連隊若しくは大隊レベルにて開校され、課程は4週間続く。
e. 東京食堂管理学校
(1) 士官及び食堂軍曹は2週間の課程を選択し、調理師及びパン焼き職人は4週間の課程を選択する。

7 落下傘学校
2月の間、この学校は526名の降下員を認定した。天候不良と飛行機の不足によって遅れが生じたが、これらの障害にも関わらず、この学校は0・5%以下の負傷という見事な安全記録を維持している。

8 飛行学校
師団飛行学校の第二学級からは2月9日に、第三学級は2月11日に、入校した21名が卒業した。月末までにこの学級は49時間の座学と、悪天候にもかかわらず6時間の飛行訓練を受けた。第四学級は、3月24日に開始する予定である。

9 結論
2月にまとめられた部隊の移動とさらなる訓練については、3月に実施される。この期間については、事件等は無し。

INTELLIGENCE NARRATIVE (省略)
SUPPLY NARRATIVE (省略)
PERSONEL NARRATIVE (省略)

TROOP DISPOSITION OVERLAYS(北海道分のみ)
11th_5mar46

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26 December 2020

美幌第一飛行場(田中)の石油貯蔵施設

工事中

2005年に似た題名を見つけたので改めて米国国立公文書館に請求してみた、昭和23年当時の美幌基地に関する情報です。現在のこちらのインデックス(のいずれか?)に当たります。

Bihoro First Naval Air Base (12)  Nara
Bihoro 1st Naval Air Base (12)  Nara

中身をよく見ると、同じ美幌第一飛行場でも美富と田中という町名ごとに、燃料タンク関連施設の調査が行われたのが分かります。こちらの田中の方は、航空燃料であるものと思われます。

Evaluation Report dated Feb. 15th, 1948 横置き五基、縦置き二基の地下タンクがあります。

STEEL TANK INVENTORY 計七基のタンクの詳細です。

Oil Strage Valves バルブ二個の詳細です。

PIPE INVENTORY SUMMARY SHEET 直径2インチ以上の配管の概要です。

INVENORY SHEET - TURBIN PUMP タービン・ポンプの詳細です。

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実査を行った日米双方の名前と日付が記録されています。

Check Sheet Apr 1948

Check Sheet Jul - Aug 1948

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基地の様子」に戻る。

(last updated 01/09/21)

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«美幌第一飛行場(美富)の石油貯蔵施設